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梟翁夜話(きょうおうやわ) №33 [雑木林の四季]

「グリーンズのある生活」

                 翻訳家  島村泰治

年末までふた月、頃合いを見計らい雑煮用に小松菜を蒔いた。ついでに、好みの漬け物に仕立てて欲しいと野沢菜を三畝、鳥たちの餌にとのらぼう菜を三畝、ままよと青梗(ちんげん)菜を四畝、いつも虫にやられて散々な目に遭う小松菜の保険にと正月菜という珍な葉ものを蒔いた。それとは別に、冬の定番ほうれん草と菜飯に欠かせぬ高菜はすでに蒔いてある。占めて六種の葉もの、グリーンズがわが菜園に蒔かれた。(米語では畑ものをproduce、葉ものをgreensという。)

群馬の藤岡で中学同窓の平井が百姓をしている。百姓とはいえ彼は著書まで残す乳牛の権威だ。昨年末、久し振りに訪ねた時、話しの流れで小松菜が虫にやられて葉っぱものは手に負えぬとこぼしたところ、ならばと彼がある知恵を授けてくれた。発芽から10日が勝負だと、その数日間に軽く土壌処理をすればいい、とその段取りを伝受してくれたのである。

そう、平井の話を余談にしようか。名は洋次、これをようつぐと読む。本人の述懐を交えて語れば、彼は中学時代、とても目立つ存在ではなかった。遠慮なく言わせてもらえば、下から数えて何人ほどで、わが庵を立ててくれた大工の加藤武司とおっつかっつの生徒だった。もう一つ言わせてもられば、2人いた平井のうち1人は調布で、こちらは英語部にいたから覚えていたが、もう1人、つまり洋次の印象がとんとないのである。ある年の同窓会で洋次に藤岡へ来てくれと招かれた。そんなだから正直気乗りはしなかったが、強いてという勢いに負けてよかろうということになったのである。思えば、あれが縁というものだろう。

某名画の鑑賞で高崎を訪れたことがあるが、藤岡は上信越の曲がり角以上の知識がなく、群馬は近いながらほぼ未知の地だった。このとき私は我が同窓、平井洋次の豊かな一面を知ったのだ。聞けば幼少から牛には縁が深かったとか、それをきっかけにひたすら乳牛の飼育にその後の年月を過ごし、日大では獣医学を専攻、研究成果を著作にまとめて出版した。これが今なお斯道のガイドブックになっているという。

平井の辿った道をなぞれば、中学の「学業」などは何の指針にもならないことの格好な例だ、と私は改めて人間力の涵養に半端な甲乙丙は邪魔にこそなれこれぞという意味はない、という実感を深くしているのだ。

その平井から貰った知恵を早速試さんがために、わが家の菜園はこのたび葉もののオンパレードになった。野沢菜の如きは例年四つ葉で食い荒らされて、軒並み葉っぱが網状になる惨状だったものが、なんと、今年は四つ葉、五つ葉やがて芯が立ち上がるまでに成長してもすくすくと育ったのである。いつもなら二葉でやられていた小松菜もしごく元気だし、青梗菜も負けじと伸び、間引きが楽しみなほどにほこってくれた。

グリーンズが溢れる菜園は何にも代えがたい財産だ。スーパー経由の葉ものの貧弱さ、味気なさを思えば、畑から抜いたばかりの葉ものを間髪入れず口にできる贅沢は、到底金では買えない醍醐味だ。怪しからん話だが、これまで虫たちがその贅沢をほしいままにしていたわけで、思えばえらい損をしていたことになる。

私は漬物に目がない。酸味を好むことから、むしろやや発酵が過ぎた奴を選んで食べる。幸い愚妻が漬物作りが得手だ。東京農大の小泉教授の影響か発酵ものに凝っており、見事に成長した野沢菜が今年は格好な野沢菜漬けに変身した。小皿に出てくる二箸ほどのわが家の野沢菜は、日々朝飯の愉しみを心地よく増幅してくれる。

2月に入って、菜園の小松菜は雑煮を賑わして去り、野沢菜は取り尽くされて樽に入った。青梗菜の畝は数株を残して土が顕れている。そう、のらぼう菜は鶏たちの好物、これは春が深まれば寸を伸ばし鶏舎の食事を賑わす筈だ。かくてわが菜園ではかつてない葉もののオンパレードが見られた。平井の知恵のおかげである。

葉ものの間隙を縫って、友人たちに評判の玉ねぎが何百株も素直に育っている。こちらはモグラとの戦いが残っている。どうだ、モグラはなんとかならぬか、と牛の平井に聞いてみようかと思っている。


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