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多摩のむかし道と伝説の旅 №21 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

                    -鑓水商人の夢の跡、絹の道・浜街道をゆく- 1

                  原田環爾

 絹の道とは幕末から明治にかけて、忽然と歴史の表舞台に登場し、一瞬の栄華を極めた後、急速に人々の記憶から忘れ去られていった道筋である。安政6年(1859)横浜開港に伴い八王子と横浜を結ぶ浜街道(浜道)と21-1.jpg呼ばれる全長約40kmの絹の交易ルートが誕生した。交易の主役は多摩の横山の西端の鑓水の商人たちであったことから、昭和32年、郷土史家橋本義夫氏により、鑓水峠を含む約1.5kmの区間を特に「絹の道」と命名され、歴史の道として保存されることになった。浜街道を現在の地図で見れば、概ね国道16号線、「絹の道」、町田街道、八王子街道、横浜道からなる。
 鑓水商人は仕入れた生糸を、馬や荷車、自らの肩にかついで八王子八日町から多摩丘陵を越えて横浜で売り渡し、帰路は珍しい西洋の文物を持ち帰り、明治の文明開化の伝播に大きな役割を果たした。しかし繁栄は長くは続かず、明治22年甲武鉄道開通、明治41年横浜鉄道開通など鉄道網、道路網の整備により、わずか50年でその役割は急速に失われ歴史の彼方へ消え去った。

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 ところで生糸や絹織物は1~2世紀頃に朝鮮半島からもたらされた。平安時代には近畿、中国、四国を中心に国内各地に普及し、江戸時代に入ると需要が高まり、養蚕技術の向上と幕府の財政立て直し策ともあいまって生産量が増大し、信州、上州、武州で盛んに養蚕が行われた。明治に入ると一気に花開き、生糸や絹織物の輸出で外貨を稼ぎ、日本の近代化に大きく寄与した。しかし戦後は化繊、合繊の登場で次第に衰退の道を辿った。

21-3.jpg かつて養蚕が民衆の生活に深く根を下ろしていた姿は今も垣間見ることができる。例えば明治から昭和初期に発行された立川・日野・八王子など多摩地域の地図を見れば、至る所に桑畑の地図記号を見ることができる。とりわけ八王子は古くから桑都とも呼ばれていた。また養蚕神を祀る社寺も各地に見ることができる。
 立川砂川の五日市街道沿いの阿豆佐味天神社には社殿を構えた蚕影神社がある。安政7年(1860)筑波山麓の蚕影神社から勧請したもので金色姫命を祀っている。金色姫とはインドの女神でこんな伝説がある。21-4.jpg昔、インドに金色姫という姫君がいた。しかし継母にいじめられ、心配した大王は姫を桑の木で造ったうつぼ舟に乗せて海に流した。舟はやがて常陸国豊浦に漂着し漁師の権太夫に救われた。しかしまもなく病で死んでしまった。遺骸は唐櫃に納められたが、ある夜権太夫の夢枕に金色姫が現れ「私に食べ物をください」と告げた。そこで権太夫が唐櫃を開けると遺骸は無く沢山の蚕に変わっていた。そこでうつぼ舟から桑の葉を採って与えると美味しそうに食べやがて繭に包まれた。すると筑波の仙人が現れ繭から絹糸をとることを教えてくれた。お蔭で権太夫は豊かになり、金色姫を蚕影山大権現として祀り、蚕影神社が創建されたという。(つづく)


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