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論語 №68 [心の小径]

ニ一二 子のたまわく、われ知ることあらんや。知ることなきなり。鄙夫(ひふ)あり、われに問う。空空(こうこう)如(じょ)たり。われその両端を叩きて竭(つく)す。

                 法学者  穂積重遠

 「空空」は前(二〇〇)に出た「怪怪」と同じく、誠実の意。あるいはこれを文字どおり無知の意に解する説もある。

 孔子様がおっしゃるよう、「わしが何を知るものか、何も知ってはいない。ただかりにいなか者があって、まじめにわしに物をたずねたとしたら、終始・本末・大小・上下・肺肝・厚薄のはしからはしまでを叩きつくして、知っているかぎりを残すところなく教えてやるだけのことじゃ。」

二一三 子のたまわく、鳳鳥(ほうちょう)至らず。河、図(と)を出さず、われ己(や)んぬるかな。

 「鳳鳥」は鳳凰。舜の時来儀(らいぎ)し、文王の時岐山(きざん)に鳴く、とある。
「図」は八卦(はっけ)の図。伏義(ふつぎ)の時にに龍馬(りゅうめ)(馬の八尺〔約二・四メートル〕以上なるを龍という)が図を負(お)いて黄河から出現しとある。

 孔子様がおっしゃるよう、「鳳凰も来り舞わず、河から八卦の図も出(い)でず、これ聖主名君なきしるし、ああわが道もこれでおしまいか。」

 聖主明君に遇いこれを輔佐して道を行おうというのが、孔子様の大願であったが、当時孔子を知りこれを用いる人君なく、これではわしも如何とも致しようがない、と歎息されたのである。孔子様が吉兆祥瑞(きっちょうしょうずい)を迷信されたのでないことはもちろんで、伊藤仁斎はその点を、「或(ある)ひといわく、聖人は祥瑞を言わずと、此に鳳鳥河図を言えるほ何ぞやと。いわく、これ祥瑞を説けるにあらず、鳳鳥河図を仮りて以て時に明主なきを歎ぜるなり。けだし聖人は人と与(とも)にして以て異を立てず、世と同じくして敢て聴を駭(おどろ)かさず。およそ事の大なる得失なきものは、皆旧套(きゅうとう)に従う。敢て粉粉(ふんぷん)の説を為して以て人の聴聞をみださず、鳳鳥河図は古来相伝えて以て聖王世を御(ぎょ)するの瑞(ずい)と為(な)せり。故に夫子これを仮りて以てその歎(たん)を寓(ぐう)せるのみ。」と説明した。すなわち明君なしと正面からいってしまうと、魯の君に対しては不敬となり、他の諸侯にも当り障りがある故、遠回しに聖主名君出現の吉兆がないとほのめかされたのである。

ニ一四 子、斉衰者(しさいしゃ)冕衣裳者(べんいしょうしゃ)と瞽者(こしゃ)とを見る。これを見れば少しと雖(えど)も必ず作(た)つ。これを過ぐれば必ず趨(わし)る。

 「斉衰」は第二級の喪服。第一級は「暫衰(ざんすい)」だが、ここでは一般に喪服という意味。「趨」は「わしる」とよむしきたりになっている。小腰をかがめて小走りすること。

 孔子様は、喪服をきた者と、大礼服の役人と、盲人とにであわれると、それが自分より若い人であっても、あちらがこちらの前に来る場合には必ず起立され、こちらがあちらの前を通るときには必ず小走りされた。

 孔子様が人の喪に同情し、爵位を尊び、不具者をあわれまれたことをいったものだが、喪服や大礼服に対してはともかく、盲人に対して相手に見えない札をつくすところが、孔子様だ。


『新訳論語』 講談社学術文庫

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