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余は如何にして基督信徒となりし乎 №57 [心の小径]

第九章 基督教国にて―神学の一瞥 3

                     内村鑑三

  十二月五日 各人ノ生涯ニハ神ノ予(あらかじ)メ定メ給ヒシ一種ノ語形変化表(パラダイム)アリ。彼ノ成功ハ、此の語形変化表(パラダイム)と自己ヲ一致セシメ、ソレニ及バザルコトナク、ソレヲ超エザルコトナキニアリ。其処ニノミ完全ナル平和アリ。彼ノ心身ハソノ中二歩ム時二最モ善ク有利二用ヒラルルナリ。野心(アンビション)の欠乏ハ彼ヲソレニ達セシメザルコト屡々アリ、彼ハ己ガ能力ヲ傾倒シテソノ事業ヲ成就(じょうじゅ)セシムルコトナクシテ此ノ世ヨリ去ル。他方ニハ、野心有リ余リテ彼ヲシテソレヲ跳ビ越サシメ、ソノ結果ハ五体ヲ毀(そこな)ニ死ヲ早ム。人ノ選択力(自由意志)ハ此ノ語形変化表(パラダイム)ヲ自己ニ合致セシムルニアリ。一度自己ヲソノ流二投ゼンカ、彼ノ費ス努力ハモハヤ彼ヲ前進セシムルコトニアラズ、タダ流ノ中二彼ヲ止メ置タコトノミ。コノ流ノ中ニアル如何ナル祝福モ之ヲ取レヨ、享受(きょうじゅ)セヨ、然レドモ其処ヨリ歩ミ出デテソレヲ追求スベカラズ。コノ流ヲ妨グル如何ナル障害(しょうがい)ヲモ冒(おか)シテ進メ、神ガソノ途ヲ定メ給へル以上、ソノ障害ハ揺(ゆる)ギナ山岳タルコトヲ得ザレバナリ。ソレニ拘(かかわ)ラズ、汝自身二頼ルコト勿(なか)レ。神ハ汝ノ流ヲ定メ給へリ、彼ハマタ汝ノ為二船長ヲ定メ給へリ。『汝彼二聴ケヨ!』

  十二月廿九日 余ハ神学ヲ研究シツツアルヲ今ナホ他人ノ前二恥ヅルコトアルヲ恥カシク感ズ、実ハ、世俗ノ心ヲ抱ク者ハ如何ナル学問ニツキテモソノ精神的半面ヲ見ルコト能(あた)ハズ、而シテ勿論「パン」ト「バター」ノタメニ伝道ストノ考ハ彼等ニハ極度二卑劣ト思ハルルニ相違ナシ。福音ノ真ノ伝道者トナルトイフコトノ責ノ自己犠牲タル所以(ゆえん)ハ、ソノ自己犠牲ガ人類ノ多数者ニハ自己犠牲ノ如クニ見エザル事実二存スルナリ。然り更ニソレハ彼等ニハ最大ノ卑劣ノ如ク思ハルルナリ。実際的ノ慈善トソノ他ノ善行トハ然ラズ。ソレ(神学ノ研究)ヲ犠牲ト考フル人々ヨリハ能フ限リソレヲ隠スコト、而シテソレヲ卑劣ト考フル人々ノ前ニハソレヲ告白スルコト、― 嗚呼(ああ)、然り、基督信徒ハコノ世ニテ相当ノ荊棘(いばら)ノ途(みち)ヲ歩マザルベカラズ。実ニ、狭キハ十字架ノ子二定メラレシ途ナリ。父ヨ、人々ノ前二余ノ公然ト汝ヲ拒ムヲ許シ給へ、而シテ余ノ天職二更二大ナル勇気ト確信トヲ与へ給へ。

 しかし余は余の神学研究をこれ以上継続すべきでなかった。過去三年間のはげしい精神的緊張は余の神経に落着きを失わしめ、きわめて怖しい慢性不眠症が余を捉えた。急速、催眠薬、祈祷はついに無効であった、そして今や余のために開かれている唯一の途は故国に通ずる途であった。余は神学を去り、そして異郷流鼠(りゅうざん)の間に得た獲物が何であれ、それを携えて帰国すべきであった。
 更にそれ以上の黙考は、しかし、かかる摂理の命令の知恵と道理を余に示した。アメリカの神学校は、明白にアメリカの教会のために青年を訓練するために設立されているので、同国と事情を異にする伝道地に赴かねばならぬ者を訓練するに最適の場所ではない。旧新約聖書の註解的研究以外は、これらの神学校で教えられている多くのものは、これを省いても、伝道地で実際に働く人々の用から多くを減ぜずにすむかもしれない。牧会神学、歴史神学、教義神学、組織神学が我々に無意義なのではない、人間の知識のいかなる部門も基督信徒の知る必要のないものはないことを我々は真面目に信ずるからである、しかし問題は比較的な重要さの問題である。けっして懐疑的なヒユームや分析的なパウルと我々は取り組むべきではない、しかしインド哲学の精緻、シナ道徳家の非宗教性、それとともに新興の意気は物質的であるが根本観念は精神的である新生諸国家の混乱した思想と行動と取組むべきである。西洋の基督信徒によって用いられる普通の語義での『教会』は、余の国人のあいだには全く知られていない、そしてこの制度が、たとえ他の諸国にて疑いなく価値あるものであるにしても、余の属する国民のあいだにいくらかでも安定の望みをもって植えつけられうるかどうかは、いまなお重大な問題である。我々がその国民生活二千年のあいだに慣れてきた道徳的宗教的教授方法は、テキストによる説教、講壇からの演述という方法ではない。我々には徳育と知育のあいだに何らの差別はない。学校は我々の教会である、そして我々はそこで自分の全存在を育て上げるものと思われている。宗教の専門といいう観念は我々の耳にはきわめて奇異に、また反撥的にさえ響く。坊主は我々にあるにはあるが、彼らは本来は寺の番人であって、真理と永遠的真実との教師ではない。我らの遺徳的改革者はすべて、文字と学問を教えたと同時に霊のことを教えた、教師であり、『先生』であった。『知識は義の道を放すが故に価値あり、吾人がその習得に従うは、以て本職の道学先生となる為にあらず。』そう言ったのはあの奇行ある異教的日本人高山彦九郎であった、そして彼こそは彼のような多くの者とともに遺徳、政治、その他諸般に渉(わた)りあの島帝国がかつて目撃した最も壮大にして最も高貴な改革を成し遂(と)げた人であった。

『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫

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