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渾斎随筆 №25 [文芸美術の森]

帝展の日本画を観て 3

                  歌人  会津八一

 次に何よりも苦しく感じたことは、圖様の情成なり気持なりの上に統一の無い絵が多いこと、これは数へ切れぬほど多い。たとへば特選の『鹿』にしても鹿を描いた筆の調子で行くならば上から下がる蔦の蔓はあんな風では無い筈だ。委員の山田耕雲といふ人の『南瓜』の下に雪宜居る小鳥がまるで南瓜と緑が無さ相。委員の木島桜谷といふ人の『灰燼』にしても、私の目には火焔は火焔で人物は人物としか見えない。何でも『海鴨喜雪』とかいふ題で鴨の群を描いたのがあった。あれなども私は生きたものゝ配合といふ気持ちにどうしてもなれない、武者絵の戦争も見るといふ調子に騒がしい。『惜春』といふ絵は三種の鳥が別々に描き込んであった。その内で大きな雉が突飛な所にとまって居るのに驚かされた。すべてかうした不調和は、畫面が手腕以上に大きい時、即ち一部分々々の揮毫に、其時々の全的精力を用ゐつくして、全局に気塊の行きわたる余裕の無い時にえて起り易い。配合は美しさを増すためのものであるのに、融和の妙が無く、雑然として混合の形になるならば配合は寧ろ厄介な重荷である。鹿ならば鹿だけ、南瓜なら南瓜だけでいゝから気特のたっぷりしたものが見たい。昔日本に妙な畫家が居た。其人は謝礼が十圓も多ければ松の木を一本多く畫き、五圓多ければその上に鶴を飛ばしてくれた。五百圓も出したら畫面一ばいに百羽の鶴を飛ばしたかどうかは私は聞いて居ないが、とにかく献立の多いのをいつの世も大衆は喜ぶものだが、芸術家が其御機嫌を迎へるためにしらず知らず自分の芸術境の静寂を破るのは今も昔も変わらぬらしい。南瓜ならば南瓜だけ、しかも一つでいゝから確かな南瓜がほしい。南瓜を一つかいて大きい絹地が填らぬといふこともなからうとはおもふが、それが填らぬ位ならば、まあもつと小さいものに描くがいゝ。
 ところが此所に『望の月夜』といふ特選がある。これは構圖なり色なり相應な出来映とはおもふが、雲に乗って月宮殿から訪れて来る仙女の群は顔も衣裳も六朝式であるのに、それを迎へるものは顔も衣裳も平安朝式の官女である。一體平安朝の美人といふものは、歴史上あの頃あんな顔が流行したといへばそれまでの話ではあるが、それにしてもあの時代の畫家が、美人をばかく見てかく描いたといふ所に美術としては深い意義がある。六朝時代にも今日の如くいろいろな女の顔があった。それを顧愷之は自分の美人観と芸術眼とを以てあんな風に描いた。今この二つの様式の美人を平気で一幅の中に納めるといふことは、たとへば写楽の女と歌麿の女をならべて一枚の絵に描くも同然で、たまゝ其筆者の無限や無感激を證明するものでなければならぬ。それから又あの仙女の群の中に車を牽く白馬は、歩いてゐるものとは私には思へない。馬の彫刻の附いた車を仙女が押して行くと見る方が近い。恐らく作者はあの馬を御物の龍頭水瓶の紋様あたりから抜きとつて其まゝ此所へ置いたのであらう。其原料の不消化からであるか、それとも或は苦心の博採を誇らんとして故さらに此道を選んだのか、とにかく馬は動かない。そして此馬が最も雄弁に語るものは全幅を渾融せしめるだけの感激の欠乏である。感激なしに描く人々、そしてあの大きいものを纏め上げやうとする人々、驚くべき人々である。尚ほ驚くべきは、それを何とかして纏め上げる人々、そしてそれを正しい美術として疑はぬ人である。       
 さなきだに厚みの乏しくなり易い日本畫である。その畫幅を大きくすればするほど比短所をさらけ出さずには済まない。特選『羽子の音』、この二人の若い女の姿態の輪廓には争ひがたいほどの強い西洋味がある。それだけに尚更ら其奥行の乏しさが目立つ。この乏しさは或は西洋風の強い濃淡でも、或は畫面に比例した東洋風の強い線の力でもこれを救ふことが出来やう。しかしながら最も簡単でしかも最も有効な方法は、唯だ畫面を今少し小さくすればいゝ。『蛍』といふ絵も同じくして救はるべき弱さを特つ。

 最も私の驚くのは植物の幹や枝の描き方である。からからの空洞でなければ、むくむくとふやけて見えるものが多い。委員山内信一氏の『巣籠』の松、同じ委員吉田秋光氏の『松』、永田氏の『梢上映日の松』、高田氏の『牡丹』、雜喉氏の『瀧川』の藤、平間氏の『庭の花』の葵などがみなそれだ。それから沢山の枝がみな平面的に排列して居るものは『春香麗日』の木瓜、『訪春』の梅、『閑林』の松、『新春麗日』と『冬ざれ』の南天その他限りの無い。
 それから葉の排列の平面的なものといへば、私は遠慮なく委員勝田勝琴氏の『霜暁』の粟の葉や、特選の『おぼろ』の櫻の若葉、委員阿部春峰氏の『芙蓉』などをさへ見逃さない。ことにこの芙蓉はあらゆる葉が畫面にへばりついて皆なこちらを向いて居るのである。しかし恐らくは此人々の手もとにあるべき小さい下園には松も空洞でなく、芙蓉の茂みにも相当の奥行きを持って居るのであらう。大なる畫面と、工業的な製作法とによって、其人々自身の自由な下園にあふれて居たであらうところの気魄と真賞味を奪ひ去ることの恐ろしさは、誰よりもよく其人々自身が自覚して居る筈ではないか。


『会津八一全集』 中央公論社


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