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正岡常規と夏目金之助 №7 [文芸美術の森]

      ~生き方の対照性と友情 そして継承 
        子規・漱石 研究家  栗田博行 (八荒
 
第一章 慶応三年 ともに名家に生まれたが Ⅱ
 ほととぎすを名乗ったこと 
         子規の出自と生い立ち① (つづき)の(つづき)
                 
7-1.jpg  おさらいです。「畏友」漱石より先に交遊が始まり、「親友」と記していた大谷藤次郎君に「落第なんぞ、人生を豊かにする経験の一つ」という調子で、明るくも可笑しい励ましの手紙をうかれだるまと署名して出していた正岡常規君でした。
 翌年大喀血という自身の大試練に見舞われた時、さすがに3か月の考え込む時間はあったものの、「脳痛」の療養のため郷里岡山に帰省していた大谷がくれた見舞状に返信して、初めて子規を名乗ったのでした。
  その返信をする10日前に届いた夏目金之助君の、君のような「優にやさしき殿御は、必ず療養専一摂生大事と勉強して女の子の泣かぬやう 余計な御世話ながら願上候」という友情あるからかいの言葉が、正岡常規君大谷君への語りかけのヒントになったかも知れないともお話しました。「色男は兎角多病…サアそねめそねめ」・・・といった、あの調子のことです。
 
  ところがです。面白い発見がありました。
 金之助君の見舞状から10日後の明治22年8月13日に、大谷君正岡君に見舞状を出していたことが分かったのです。(和田克司編。正岡子規との友情の結晶「大谷是空・浪花雑記」より・・・)その中で大谷君はこんな風に語りかけたようなのです。「ようなのです」というのは、コピーの取れない時代のことで、正岡君との交遊を大切に感じ始めた大谷君が、のちに思い出して子規宛て書状を「浪花雑記」という随筆集に、記憶をもとに書き起こしたものだからです。
  それによると大谷君は、この時の子規への手紙をこう始めています。
    此頃は気管破裂の為 時ならぬ時鳥とか 誠に驚入申候 
  友人正岡の結核が気管破裂というレベルのことであったことを誰からか知って、投げかけた言葉なのでしょう。こう続けます。
    亦 君不足の身体には左様沢山の病気は全く御無用と存候
      始めの子規病にて充分也 此上に気管病とは賛沢過ぐる様
         相考申候
君のようなからだには、そんなに沢山の病気は要らない。初期の結核で充分なのにと嘆いて見せて、一転、気管病まで重なるのは賛沢過ぎると投げかけているのです。これをユーモアとして受け取る相手であることは、大谷君はすでに十分判っていました。去年の夏、落第して落ち込みかけている自分に落第肯定の激励大演説をして、「うかれだるま」と署名してきて「笑天様」と呼びかけてきた、あの相手なのですから。
 もちろん正岡君はこれに対して同じ気分で切り返します。それで「色男は兎角多病・・・サアそねめそねめ」という、あの返事となったのでしょう。そして初めて、ペンネーム子規を「他者」に向けて名乗ったのでした。
  しかしそこに、10日前に届いていた夏目君「優にやさしき殿御は、・・女の子の泣かぬやう」というからかいの言葉が、正岡君の気持ちの中で、触媒として作用していたことは、ほとんど間違いないでしょう。

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  漱石は喀血した子規を、書生仲間では最初に見舞った人でした。喀血3日後の速さで、旧松山藩の常盤会寄宿舎に友人数名を連れてやって来たのでしたが、その中に大谷君は入っていません。

  その時正岡常規は、見舞いに来た夏目金之助君らに「あの晩4~50句できてナア」と高らかに話した形跡があります。そのなかで
      卯の花を めがけてきたか   時鳥  
                            卯の花の 散るまで鳴くか   子規
の2句も披露したことでしょう。
  というのも、漱石子規を見舞った夜、長文の手紙をしたため、その結びに次の2句を書き添えているのです。
      帰ろふと 泣かずに笑へ    時鳥
             聞かふとて 誰も待たぬに   時鳥
  明らかに子規が開陳したらしい2句への、返句となっています。
  漱石は、見舞った日の帰りに、子規のかかった医師を訪ね事細かく病気の程度や留意すべき点を聞き出し、それをその夜の裡にまとめて長文の手紙を書いたのです。時には子規に対して辛辣家になるあの漱石とは思えないくらいの、しみじみとして真心のこもった、友情と親切心が感じられる文章となっています(後日詳細紹介)。その手紙の末尾に彼は初めて作ったであろうこの2句を添えたのでした。
7-2.jpg   これが俳人漱石の出発点となったのでした。漱石が作った俳句は、この年この2句だけでした。そして明治22年5月13日付のこの手紙が、子規(53通)と漱石(89通)の往復書簡の始まりとなったのでした。
(八注・それを集成したのは、松山の子規記念博物館・初代館長をつとめられた和田茂樹さんでした。長年の子規研究家でした。先の「大谷是空・浪花雑記」を集成された和田克司さんの父に当たる方です。両著は子規・漱石はもとより、明治期の日本人男子の思索の後を考証する資料として、とても貴重なテキストとなっています)
  正岡君への見舞状を、夏目・大谷両君が連絡を取りあった上で、ほぼ同時期に出したとは、文面からから見ても考えられません。しかし、大谷君の見舞状にも最後に
          時すぎて此上なくな時鳥   
                  血に鳴くも身は無事にせよ時鳥 
                             其声を海にこぼせや子規
            などのほととぎすを詠んだ句が添えられているのです。
  子規からあのほととぎす2句を披露され、返しの2句を3日後に書き添えた漱石の心配と心情が、一高書生の仲間に静かに広がったと思へてなりません。大谷君もそれで友の喀血を知ったのでしょう。
  郷里松山で日を過ごしている正岡君の近況を気遣う友人達の気持ちの流れが、見舞状の届いた時期の近さとなって自然に表れたのです。正岡子規という文学者が、大谷君に初めてペンネーム子規を名乗ったのには(八注・明治22年8月15日)、そんな友情の流れに誘われて自ずと出た態度決定という側面もあったのではないでしょうか。人が、「アイデンティティー」を固めるには、当人の内側の成熟と一対に、他者との関係も大きく作用するもであること示す典型例と言えましょう。
  対等の知性で結ばれた、文人的気分を湛えた明治のエリート青年達が交遊する際のこころ動きに、感嘆を禁じ得ません。そして、そんな交友関係の中心に、満22歳になる前にすでに正岡常規青年がなっていたことにも、同じような感嘆を禁じ得ません。

7-4.jpg もう一つ、発見がありました。子規・正岡常規大谷君へのあの語りかけは、大谷君の実人生にどんな影響をもたらしたかという点についてです。
  実は、この子規喀血の年の秋、明治22年11月21日からの4日間、子規は大磯の松林館という大きな旅館で療養中の彼を訪ねています。その4日間を「四日大尽」という妙な紀行文にまとめています。「四日大尽」とは4日間の豪遊というような意味です。秋の幽霊子規子著と署名して、こんな風に始めているのです。
       是空子(=大谷君) 脳病を以て学を廃し 大磯に遊ぶ 
 どうやら大谷是空君は落第に続く脳病(神経衰弱?)という経過から退学を決意したようなのす。そして、大磯の松林館で保養中だったようです。
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  正岡君のあの2度の呼びかけはどうやら実際的な効果はなかったということになります。しかし、この紀行文は「同所松林館より発句を寄せて来遊を促す」と続き、大谷君が俳句で「来ないかい」と呼びかけてきたらしいことが伺えます。そこで、

  ・・・明治二十二年十一月廿一日午後二時三十六分汽車新橋を発す 
          此日や天朗に気清く紅葉野に満ちて晒錦の如し
            通りぬけ通りぬけても紅葉哉
  四方山の錦の衣を重ね着するこそ 先づは大尽遊びの始めなりけり 

という事になったようです。車窓から紅葉を楽しみ、
    夕日傾く頃に大磯につきぬ ・・・樹の間に家の見ゆるは
                                       いはでも知れたる松林館也 
 松林館は当時格の高い大旅館で、大物客や富裕階層の湯治客がゆったりと逗留したりする所だったようです。(八注・大谷君は今の岡山・津山の庄屋の家系の人で、富裕階層の出でした。)
 直様 玄関ヘ縦づけとなせば(八注・人力車をまっすぐ乗り付けると)
  「お客さまだよ」「おいでだよ」と二声三声叫ぶと見えしが
  館中の男ども女ども皆式台に出迎へぬ 余は優然として式台に
  上れば彼等皆もつたいなさうに、余を拝みたり (!?)
  中にも気のききたる力の強さうなる女 いち早く荷物をかるがると
  引ッさげて(尤カバンは中には着物三枚のみ)走り行く。
 
  下へも置かぬ大物待遇が始まったのです。子規・正岡君は優然としてそれに調子を合わせているのです。この旅館は、来客すべてをこの調子で出迎えたのでしょうか?友人に子規と名乗り始めてはいたものの、まだ第一高等中学の本科一部2年3の組に進級できて間もない頃の、明治の貧乏書生正岡常規君だった筈なのですが・・・
    是空子も玄関に出て余を導く(大谷君も、出迎えてくれていたのです)
  余は女どもに護衛されて(笑)第七号と記したる玄関横の室に入る、
  此室は八畳敷に一間の床あり、室の中央に段通をしき其又中央に
  四角なる一閑張の机をすゑ、其又中央に硯箱をおきたるは、
  是空子の閑事業(ひまつぶし)と知られたり、まうけの茵(しとね)につ
  けば
  ゴブリとはまる其心持に(八注・そのくらい分厚い座布団だったわけです) 
           汽車のつかれは一時にほうり出されてあとかたもなし、
   茶菓を喫しながら是空子と一別已来(以来)の出来事を話す 
   庭前を見れば庭は白砂をしきならべ小松をうゑつらね其間處々に
  石の床几を据ゑたる處は まるで文人画の山水と土佐派の景色とを
  一處にうつした様也 
  こうして「四日大尽」と題名を付ける豪遊が始まったのです。「豪遊」と言っても、全く色っぽいものではありませんでした。号を是空と名乗っていた大谷君と、初めて彼に子規と名乗って見せた常規君の文人風雅の交わり…といったところでしょうか。少年時代に山水画の中の水辺のあずまやに棲む詩仙になることを夢想したりしたこともある子規だったのです。満悦この上もない初日でした。

  翌日から、そう気乗りする風でもない是空君を誘って大磯の名所古跡を散策する4日間となります。西行が、
      心なき身にも哀れはしられけり 鴫立つ沢の秋の夕くれ
と歌ったことに因む古蹟を訪れた後、そこを見下ろす崖の上に立って、
    崖上に立ちて下を望むに 此処は成る程昔は沼澤ならんと思はれ
    薄蘆のたぐびまじりおひて 井のあれたるなど残れり
             鴫立ちて澤に人なし秋のくれ
と月並みの一句を詠み、さらに足をのばします。
    諷然とこゝを立ち出でゝ 東海道筋を西へと行くに
    富士山突兀として中天に聳え 白雪旭に映してうつくしきこと
    いはん方なし、ぐるりの山ゝは今を盛りと紅葉しゐるにことさら目立ち
    ければ
          山ゝの 錦のきぬのあはひより
                          雪の貌出す富士の頂
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と詠じ、上の絵まで描き添えて続けます。

        ・・・之を発句に翻訳すれば
            山はにしき不二独り雪の朝日かな

こんな風に丘陵と海岸の里・大磯を、あちらこちら散策するのですが、旅館の内でのことも上機嫌で綴っています。
  着いた日、大男の三助さんに「背中をお流しましょう」と云われて、
      余は驚き七日以来積りし垢に偽紳士(笑)の化けの皮まで
                  すりむがれては大変と、早速之を断りけれは 
                              三助先生喜びて奥へ入りぬ、
 そのあと、部屋に帰れば、
    女群来りて八珍の美味を陳ぬるなど、
                        まるで槌で庭はかぬ許りの取扱ひなり 
  料理を並べる仲居さんらが、この書生の眼にはこう映ったわけです。
  翌日はこの旅館の侠客のような貫録をみせる主人が挨拶に来て、「何かできましたか」と問われて、昨晩作った漢詩を見せたところ、感心されて
  此頃のかたは詩なんどつくる人はないやうですが、
      何ですか、やつぱり詩を作る人は文学士になるのですか
                            といひしに 覚えず大笑を催したり
と悦に入ったことも記しています。そうかと思うと別の日には、ちゃきちゃきの江戸っ子らしい仲居さんと、是空との3人でまるで漫才のような会話を弾ませています。そして四日目の朝、湘南の岩浜に打ち寄せる波を見物した後、こういうことになります。
      餘り(の)寒さに病体は岩上に立ちかねて家に帰れり、
放埓に風流ぶった末に、四日目にしてようやく結核病みの自分に思い至ったわけです。そして、
    午飯後 だしぬけに帰京のよしを宿へ通知しければ…
    館主は 扨置き(八注・主人はさておき)女どもの愁傷大方ならず、(!)
    花水川位は蛇にならいでも飛びこえるといふ勢のものもあれば、
    或は一心の石とこりかたまりて松浦潟はいふまでもなく虎子石も
    そつちのけにするといふ騒ぎ、
筆者(八荒)の読解力では説明しきれませんが、要するに格調高い大旅館の女衆が、「正岡さんがお帰りになる」と愁傷する大騒ぎになったと言うのです。
    それではと色ゝと気をもみて とにかく長居は災のもとと 
                          そこそこに車を飛ばして家を出でぬ、
すでに開通していた大磯駅に向けて、人力車で帰途に就いたわけです。
    ふりかへり見れば、門まで見送りし侍女どもの泣きつわめきつ、
    手をあげて、招くと見しは枯れ尾花、ゆらゆらとゆられながら、
    はや停車場につき、三日の住居も并州と(第二の故郷のように思えて)
    かへり見がちに行き過ぎぬ
          ふじ山の 横顔寒き 別れかな
    道ゝは車の窓より首をつき出し見るに 村ゝの紅葉は相愛らず
                                        あだめきてうつくし、     
           一村の 家まばらなる 紅葉哉
    始めありまた終あり、人間の栄耀(派手・贅沢)も しつくして
                          先づはこれまで めでたし めでたし
 
  4日間の大尽遊びのこれが結末です。これはいったいどういう事だったのでしょう…? 5月に大喀血したその年の晩秋の正岡常規君の行状記なのですが、招いた大谷君を始め明治の書生たちの友達付き合いの気分が、背景にありそうです。
 
  永くなりますがこの脱線を続けます。次回2月1日、
      ほととぎすを名乗ったこと  子規の出自と生い立ち① 
            (つづき)の(つづき)の(つづき)として
           明治の書生たちの交遊の心
  を焦点として考えて見てみたいと思っています。お付き合いください。
 

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