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梟翁夜話(きょうおうやわ) №31 [雑木林の四季]

目方の話

                 翻訳家  島村泰治

起きがけに私は慣わしで秤に乗る。コンマ以下が一桁出るデジタルだからだろう、いつからか自分の目方に神経質になっている。秤には必ず褌姿で乗ることに決めているから目方はごく正確で、おおかた七十キロの辺りをコンマ単位で上下している。いつかなこれが、巷で云うこの歳の平均体重六十七−八キロ辺りに落ち着くものか、一向にその兆しがないまま、この起きがけの慣わしはもう四、五年余続いている。

暮れのある朝、私はいつものように秤に乗った。云うまでもなく褌姿、真るっ裸だ。見下ろせば、その身に寸鉄も帯びないわが身の目方が、何と七十三キロ近くあると云うではないか。私はわが目を疑った。咄嗟に体中を擦(こす)りまくった。屈んで秤の具合を調べた。何処も何も異常はない。そっともう一度乗ってみる。やはり七十三ちょっとある。三度目の何とやら、もう一度乗って同じ数字を確かめて秤を降り、私は憮然として着替えを済ませた。

血圧データを採取、データの記入作業をしながら私は考えた。尾籠ながら大小の排泄に滞りはないか、何か目方に障るものがあるか。何もない。夕餉に何を食おうと一夜明けた起きがけ、朝の厠は済ませてのことだから目方に障ろうものがある筈がない。二キロと云えば蜜柑なら十数個の重さだ。それだけの重みが真るっ裸に乗るとなれば、目に見えて何かがあろうではないか。ある朝それだけ目方が増えているには、何かわけがなかろう筈がない。それが何もないのである。

私はさらに考えた。「もの」がないとなると、秤に乗った二キロの目方の説明がつかない。針に狂いがない限り増えた目方は厳としてあるのだから、如何にも不可解だ。およそ「もの」以外が目方に障るなど考え難いが、どうやらそれ以外に目方が掛かる何かがあるようだ。あの二キロの素性は何だろうか。

突如、私の思いは只ならぬ向きに彷徨(さまよ)った。知識や知恵、沈思や黙考など形而上のサブスタンスに質量がありやなしや。脳みその軽重は即脳細胞の質量か、それとも取り込まれた知恵の多寡か、それらの総和か。倦むほど本を読めば、その知識なり知恵なりが質量を産み体重が増えようか。愚にもつかぬと云えば云えようが、例の二キロを気に病む私には愚とも思えないのである。漱石は1450gでアインシュタインが1230g、アナトール・フランスが1017gだと云う。ものの本によると才覚は脳の神経細胞の配線具合次第で、脳の重量と才覚には直ちに相関関係はなさそうだ。

それはそれでいい。問題は摂取する知識で脳みその質量が変化するかどうかだ。矢鱈に拘るにはわけがある。実は、此処まで考え及んでふと気付いたことがあるからだ。目方が微増した前日の晩から夜半まで、私は例になく長時間に亘り読書に耽っていた。それも行間を探るような内容の濃いものだったことから、読後只ならぬ疲労感を覚えた。頭だけが重いとは感じなかったが、前述のように翌朝の計測で二キロ増を確認したのだった。

これを書きながら、私は常軌を逸したこの話の落とし所に苦慮している。だから、これ以上さらに敷衍して語り継ごうとは思わないが、拭いきれない疑惑が依然残ることは確かなのだ。知識が目方に出るか否か、愚にもつかぬと貶(けな)しながら、私はさもありなんと認める愉快をも感じて、窃かにほくそ笑んでいる。

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