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石井鶴三の世界 №131 [文芸美術の森]

 わたくしの好きな人

          画家・彫刻家  石井鶴三

 大雅堂というのは今からおよそ二百年前の人で、心の清く美しく、すぐれたよい絵を書いた人であります。姓は池といい、名は無名と書いて「あり名」とよむのです。大雅堂はその号であります。この大雅堂が、若い時のことですが、音楽がすきだったので、その頃三味線の名人といわれた安永検校という盲の人の隣へ、わざわざ引越して行って、その家からもれてくる三味線の音を聞いて、よろこんでいたのですが、ついにある日のこと、検校の家をたずねて、自分のこころざしを話し、何とぞ一曲ひいて、聞かせて下さらぬかとお願いしました。
 検校もこころよく承知して、一曲ひいてくれたのでありますが、その三味線の裏の皮が、破れていたというので、音色があるかったのでありましょう。こんどは真皮の破れていない三味線で、もう一曲をと、かさねて大雅堂がお願いしたので、検校は少しきげんを悪くしたようで、「あなたは何の仕事をしているのですか。」と聞きました。大幡蝮は、「絵をかいております。」と答えました。
 そしたら槻棟は、「ではあなたは、絵は下手でしょう。」といいました。こんどは大雅堂が少しきげんを悪くして、検校は三味線は名人だが、盲だから絵はわかるまい、自分の絵を下手だというのはおかしいと思いましたから、「どうして、私の絵が、下手ということがおわかりになりますか。」とききました。検校は静かに答えて「されば、三味線というものは、右の手にばちをもってひくものではあるが、左の手に心がはいらねば、けっしてよい音楽はひけるものではありません。あなたが三味線の真皮の破れているのが気になるようでは、私の左の手にこもる心が、おわかりにならないものと思います。それゆえ、
あなたは絵は下手であろうといったのです。絵も右の手に筆をもってかくのであるが、左の手に心がはいらなくてはよい絵はかけぬでありましょう。」といわれたので、大雅堂は、ひどくその言葉に感心して、自分の心の足らなかったことをはじ、あつくお礼をいって、家へかえりましたが、それから一層勉強して、よい絵をかくことに努力し、ついに立派な画家となったのであります。その後、大雅堂は人にあうと、安永検校の話をして、私のほんとうの絵の先生は、安永検校であるといったということです。
 このお話は、私がこどもの時、小学校の読本でよんで、はじめて知ったのでありますが、子供心にも、大へんよいお話と感じたとみえて、いつまでも忘れなかったのであります。私もおとなになって絵を勉強するようになり、忘れなかった大雅堂のことを、本で読んでなおくわしく知り、またその絵を見て感心し、いよいよ大雅堂という人が、好きになったのであります。
 絵というものは、人とか鳥獣、草や木の花、景色などいろいろのものを写すのでありますが、ただそれだけでは、いところがなければなりません。それにはただ、物の形や色を写す手さきの勉強だけでは出来るものでなく、どうしても、心を養わねばなりません。あるい心、いやしい考えを無くし、よい心掛け、美しい心づかいの出来るよう、勉強するのです。
 大雅堂という人は若い時から絵をかく人として、ほんとうの勉強を心掛け、その勉強を一生怠らなかった人であります。日常のくらしは貧乏であったが、心はいつも美しくゆたかでありました。それだから、よい絵がかけたのであります。大雅堂の絵を見ていると、いやなことやわずらわしいことなど、いつか忘れて、大へん幸福な世界へつれていかれるような感じがするのであります。次に大雅堂のいった大へんよい言葉についてもう少しお話しましょう。
 ある時お弟子の一人が「絵をかくのにいちばん大切なことを一言でいって下さい。」とお願いしたところ、大雅堂は「絵をかくのに、何もないところが、いちばんむずかしい。」といったのです。皆さんは、どう思いますか。何もないところは、むずかしくも何ともないと思うでしょう。ところがその何もないところが、いちばんむずかしいのです。
 いいかえると、一番大切なのです。私はこれまで小学生諸君のかいた絵を、たくさん見ましたが、人だとか犬や猫、花や器物など、そういうものは、ていねいによくかいてあって、多く感心するのでありますが、その周囲の何もないところとなると、ぞんざいに色が塗ってあったりして惜しいと思ったことが、たびたびありました。どうぞ大雅堂のいった「絵ほ何もないところが、いちばんむずかしい。」という言葉を、よく味わって下さいませんか。そして、何もないところを、ぞんざいにしないようにお願いします。                       (毎日小学生新開昭和二三年二月)

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【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三素描集』形文社


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