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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い!」 №1 [文芸美術の森]

シリーズ≪琳派の魅力≫

           美術ジャーナリスト  斎藤陽一

            第1回 「琳派」とは何か?


≪はじめに≫

琳派1-1.jpg 私は、若い頃から西洋文化に憧れ、とりわけ西洋美術に興味を持って半世紀あまり勉強してきた者ですが、近年になって日本美術への傾斜を深めています。
 ずっと西洋のことを勉強しながらも、「日本のことを知らないで西洋ばかりを理解しようとして何になるのか」という思いは、いつも心の中にひっかかっていました。

 それでも、特に「琳派」と「浮世絵」については、若い頃から、“近代の西洋美術に大きな影響を与えた日本美術”という観点から、すぐれた日本美術史家たちの本を読んだり、展覧会があれば出来るだけ見るようにしてきました。

 すると面白いことに、「西洋」を眺めてきた眼で日本美術を見つめてみると、日本人としては当たり前のものとして見過ごしてきたようなところに、西洋とはくっきりと異なる
“日本的特性”と言えるようなものがある、という発見をたびたびするようになりました。「日本美術はとても面白い」と思うようになったのです。
そして今、やっと老年になってから、「遅かりし!」という心もとない気持ちを抱きつつ、肥沃な日本文化の中へとぼとぼと足を踏み入れています。

 そんな次第なので、“西洋かぶれ”が、時には「西洋」の眼鏡を借りて日本美術について語ることも一興ではないか、と勝手に考えて、これからぼちぼちとおしゃべりをしていきたいと思います。これから始める一人語りは、ひとえに、私同様、日本美術について勉強したいと思っておられる方々へのお誘いのようなものです。

 言うまでもなく、日本美術は豊かで広い大地のようなものであり、すぐれた研究を残された専門家がたくさんおられます。
日本美術を勉強する時、私は、それら先達の方々から測り知れない学恩を受けてきました。これから私が気楽におしゃべりしていくことが出来るのは、何よりもそのお蔭なのですが、その都度、すべてのお名前や著書を紹介することは出来ないと思いますので、はじめに心からの感謝を申し上げておきたいと思います。
 また、随所に勝手な想像を加えたり、道草を食ったりすることもあると思いますが、たわいない〝雑談〟と思っていただき、どうかご寛容のほどをお願いします。

≪「琳派」とは何か?≫

琳派1-2.jpg

 それでは、しばらくは「琳派」のことを語っていこうと思います。

 とは言え、そもそも「琳派」とは何か?―と問われると、意外に説明は難しい。話を進めるために、一応、私なりに理解していることをまとめてみると―

 「琳派」とは、活躍した時期が異なり、直接の血縁関係もなく、師弟関係もない、俵屋宗達、尾形光琳、酒井抱一といった個性的な絵師たちによって、時を隔てながらも、敬愛する「先達への私淑」という形で継承されてきた独特の美意識の系譜、ということになるでしょうか。

 ずいぶんとややこしい言い方になってしまいましたが、「琳派」とは、「狩野派」のように世襲や師弟関係によって連綿として続いた流派ではなく、能楽・狂言、歌舞伎のような継承スタイルでもなく、また茶道や華道などの家元制度とも異なる、類例のない美の系譜とでもいうべきものなのです。

 ですから、「琳派」という系譜は、なかなかとらえどころが難しく、研究者の中には「そもそも“琳派”というような流派はない」と言う人さえいます。これも一理あるかと思います。

琳派1-3.jpg そして、当然ながら、俵屋宗達や尾形光琳、酒井抱一、それぞれの周辺には、美意識を共有する仲間や弟子たちもいました。さらにその後に続く時代にも、自覚的にそのような美意識を継承する画家たちがいました。「琳派」とは、そのようなグループを総称した呼び方なのです。

 しかも、近年開催され、私の眼を開かせてくれたいくつかの「琳派展」(※)などでは、「琳派」の美意識は、明治以降、近代から現代にいたるまで、絶えず創造的な仕事に関わる人たちから「再発見」され、新たな装いでよみがえっている、と言うのです。
    (※例:「琳派・RINPA展」:2004年8月~10月・東京国立近代美術館
       :「尾形光琳300年忌特別展」:2016年2月~3月:MOA美術館)
 確かに、「琳派」という言葉はとらえどころがなくても、「伝統から創造へ」ということに自覚的に挑戦している近現代の芸術家たちの作品に接したとき、しばしば「あ、これはまさしく当代の“琳派”だ」とうなずくことがあります。そして、そのような作品は決して旧くはなく、はっとするほど斬新であったりします。

≪「琳派」という言葉の由来≫

 もうひとつ確認しておきたいことがあります。それは、宗達や光琳、抱一たちが生きている間に、彼らが「琳派」と呼ばれていたわけではないということです。
 「琳派」という言葉が生まれた経緯を簡単に押さえておきましょう。

 日本がひたすら西洋化をめざして邁進した明治開化期のこと、日本美術は海外に大量に流出し、西欧では「日本ブーム」が起こりました。
当時、アカデミックな西洋美術に飽き足りない印象派などの若い芸術家たちは、西洋美術とはまったく異質な日本美術の中に、斬新な特質をいくつも発見し、それらを自分たちがめざす新しい芸術創造の触媒としました。これが≪ジャポニスム≫ですね。
 「印象派」だけではなく、西洋芸術への日本美術の影響というものはもっと広範なものでしたが、その中でも、「北斎」とならんで、「尾形光琳」は画家として高い評価を得て、その名は欧米に広まりました。

 明治時代もだいぶ進んだ後半頃から、海外での「光琳」の高い評価が日本に〝逆輸入〟され、国内での光琳再評価の機運が高まりました。そのとき、俵屋宗達から始まる独特の美の系譜があらためて認識され、当初はそれを「光琳派」とか「宗達・光琳派」などと呼ぶようになったのです。
 やがて昭和時代になって、しかも戦後になって、「琳派」という呼称が定着しました。RINPA!―まことに響きのいい呼び方ですね。

 繰り返しますが、宗達・光琳・抱一らが生きている時代に、そう呼ばれていたわけではなく、近現代になってから、時を超えて継承され、新たな装いで蘇ってきた独特の美意識の系譜を“発見”し、それを「琳派」という名称でくくったのです。
 ですから、現代の芸術家が、過去の「琳派」の作品の中に、新たな創造の泉を発見し、そこから啓示を汲み出して新しい作品を生み出したとすれば、その芸術家は「私も現代の琳派である」と称しても構わないのです。勿論、そんなことを言わなくても一向に差し支えは無い。
 
 こんな具合に「琳派とは何か」について語り出すと、ともすれば、迷路に入り込んでしまいかねないので、このくらいにしておきます。おおよそのことは、つかんでいただけたでしょうか?

 初回ということで、前置きが長くなってしまいましたが、次回からは、早速、俵屋宗達の「風神雷神図屏風」を見ることから始めて、「琳派」の流れをたどっていきたいと思います。
                                                                  (次号へ続く)

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小栗友一

初めて拝読しました。外を見ていると、内の良さが分かりますね。
by 小栗友一 (2019-01-01 16:27) 

米田利民

ありがたく拝読しました。今後が楽しみです。
by 米田利民 (2019-01-03 23:21) 

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