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シニア熱血宣言 №110 [雑木林の四季]

 春待つ心、庶民の夢は・・・

                                     映像作家  石神 淳

 会津高原の道の駅「番屋」には、古風な郷土菓子やジューネン(え胡麻)など、昔からの会津名産が、さりげなく客を迎えてくれる。「ジューネン」とは、10年長生き出来るという胡麻科の種子味で、古くから「ジューネン味噌」は、会津の定番味噌だ。
 舘岩村(古い温泉)の山奥にある水引集落(茅葺き集落)には、明治の大火で樵の集落が全焼したあとに再建され、古びた消火栓が遺されている。以来、防火の精神は、先祖代々、厳しく受け継がれてきた。都会では、すべてが行政任せの時代になっているが、ここでは、老人から子供にいたるまで、頑なに生まれ故郷を守り抜いてきた。明治百年。時の流れの速さに身を委ねながら、命懸けで守り抜いてきた。そんな水引集落を訪れるたび、いい知れない(熱き心)を肌で感じる。隣組と称し、近隣が同じ気持ちで暮らした時代もあった。それは昔話の世界で、都市化と引き換えに、相互扶助の「情け」を失った。

 茅葺き集落に、「離騒館」と名ずけられた民宿がたった一軒がある。都会の喧騒から隔絶した宿という意味だと思う。人それぞれだが、自然に包まれ都会から離れて、自分と向き合って見たい人には、うってつけの環境だろう。冬になると深い雪に埋もれた集落になる。春になると、空も雲も新緑も、大手を広げて抱き寄せてくれること請け合いだ。

 只見川の田御倉ダムは戦後復興の象徴であったが、いまでは少し忘れかけられた存在だ  しかし、只見川の悠然たる流れは、「会津人の心」であることに変わりない。 
 会津人の心底では、はいまだに薩摩・長州に怨念を抱いている人が少なからず。大河ドラマ「西郷どん」の低視聴率をに、ヤッタ!と、胸を撫でおろしているのは、私ばかりじゃない。会津人は、戊辰戦争で負った心の傷を、孫子代々癒しきれていない。

 会津川口駅の構内で、赤錆て草に埋もれた線路。「この駅から越後へは行けませぬ」
 2011年7月、東北豪雨の深夜、地響きをたて、只見川の鉄橋と土手の一部が崩落、住民たちは眠い目をこすりながら飛び起きた。
 朝になり。「アッ鉄橋がない」と絶句。悠久の只見川の土手が崩落し、橋梁の一部が消えていた。
 あれから8年の歳月が過ぎ、会津只見線は、会津若松駅と会津川口駅間の折り返し運転を余儀なくされている。
 あの絶景で四季折々に風光明媚な光景は、2020年、東京オリンビックの年には、ようやく蘇るが、ここにも復旧を待つ、会津人独特の粘り強さが見て取れる。
  少年時代、会津坂下(ばんげ)や柳津(やないず)は、とんでもない田舎だった。現在では、新潟まで磐越自動車道でひとっ走りだ、茨城県までも遠くはない。寂れたとはいえ、郷土玩具のアカベコ・起きあがり子法師・絵蝋燭・身知らず柿・献上菓子(九重)・九重は宮中を意味するとか。子供の頃の土産といえば、楊枝で突つくと弾ける玉羊羹とコンペイトウが定番だった。名産品は何といっても会津塗で、明治天皇ご大典の折り宮中に納めた「三つ重ね杯」は不思議な存在だった。戊辰の戦いで逆賊扱いした明治政府は、せめてもの罪滅ぼしにと、会津藩にご大典の献上品を造らせたのだろうか。
  今では、故郷「近江屋」のお宝だが、近江の日野から蒲生の殿様に従い、会津に移した近江屋だが、白虎隊の戊辰戦争後、小原庄助まがいに、漆芸品を蔵から喜多方に処分して没落した。
 会津若松市内の中心にあった蔵が、つい20年前まで遺されていたのも、いかにも会津の風土を物語る。
 会津人の多くの人は、いまもでも逆賊の汚名を受け入れていない。
 もし大政奉還がなく徳川の世が続いたら、現代にどう繋がっていただろうか。
 仮に、歴史を振り返えって見るのも、決して無意味ないことではない。
 思うに現代の日本人は、「他力本願」に慣れ過ぎて忘却を常とし、過去を振り返る心を忘れさせているのかも知れない。

 高度成長期、会津若松の中央通りにあった、市電が走る計画も頓挫、戊辰戦争以後石垣だけを遺した「鶴ヶ城跡」だけは、会津っぽの熱意で再建された。
(その実、城郭を渡したくない、会津藩士の手で始末されたとも伝えられるが・・・)
 城跡に遺る「荒城の月」(土井晩翆)の歌碑は、会津人に誠の心を訴え、悠久の只見川の流れに、白鷺が舞う白虎隊の姿を映しながら、心の襞に訴えかけてくる。 
 その舞姿は、初夢になるかも知れない。

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