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雑記帳2018-12-15 [代表・玲子の雑記帳]

2018-12-15
◆久々のお江戸まち歩きは「神楽坂Ⅱ」です。

前回歩いたjR飯田橋駅から江戸城外堀を渡って坂道を上るコースは極めてポピュラー、誰もが知る神楽坂でしたが、今回はちょっとマイナー。学生時代を早稲田で過ごし、神楽坂は毎日の通学路だったという人さえも知らなかった江戸を巡りました。

集合場所の東西線神楽坂駅の出口にある矢来町は、家光、家綱、綱吉時代に大老を務めた酒井家の江戸屋敷があったところです。小堀遠州の手がけた庭は家光好みとされ、家光はこの屋敷を141回(!)も訪れています。江戸城の大火の折には70日もの長逗留、警護のために周囲を竹やりで囲ったのが矢来町の名の由来とされています。塀にしなかったのは、外を通る人にも庭が見えるようにという粋な計らいだったとも言われています。
  
歩き始めて最初に目についたのが「生田春月旧居跡」。大正から昭和にかけて活躍した詩人は、ハイネの全詩を翻訳しました。ハイネの詩は昭和期の多くの学生に愛されて、春月の名は知らずとも、今、彼の訳したハイネを懐かしむシニアは多いかもしれません。
プレートで分かるようにこの辺りは天神町。矢来町もしかり、町を歩けば牛込、弁天、榎町など、随所に古い町名が残っているのに気付きます。新宿区のプライドが覗くようです。

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大通りから少しはいった通りには製本、印刷の小さな会社がたちならんでいました。かっては賑やかだった業界も今では斜陽産業、人通りもなく、めだつのは大日本印刷の大きなビルだけです。ここは慶安事件で知られる由井正雪の学塾があった場所で、一時は3000人の門弟がいたといわれています。
当時、江戸中にあふれていた浪人たちの不満を幕府に向けた正雪の乱は内通により失敗におわりましたが、徳川家3代続いた武断政治から文治政治へ舵を切る転換点になりました。成功はしなかったものの政治を動かしたという点では、或る意味、本望だったのかもしれません。

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臨済宗の済松寺は京都妙心寺派の寺です。
叔母の春日の局の招きで大奥に上り、大奥の女性たちに禅の教えを説いた祖心尼(俗名おなあ)のために、家光は、350石、1万2千坪の広大な寺院を建てました。芝にある、かの増上寺が500石、2万坪と聞けば、済松寺の格の高さ、大きさは想像がつくというものです。(寺の石高はおよそ大名領地の2000倍に相当するそうです)
敷地を外堀通りで分断され、大半は駐車場になっているため、当時の面影を外から見ることはできませんが、中に入れば庭はまるで深山幽谷のよう、墓地には名のある大奥の女性達の墓が並んでいました。見せてもらった庭は、普段は公開されていないということです。

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済松寺本殿
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谷底に池もある、深山幽谷の気配のある庭 
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祖心尼の墓

その外堀東通りを早大通りを過ぎて北に進めば、元赤城神社跡に小さな田島森神社があります。ここは群馬県大胡から牛込に移住してきた大胡氏が、最初に故郷赤城山麓の赤城神社を勘請した所です。一帯には律令の昔から牛を放牧した官制の牧場がありました。

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田島森神社

仕えた主君は上杉、北条、豊臣、徳川と、変わり身の早かった大胡氏については前回の「神楽坂まち歩き」で述べたとおりです。
現在の赤城神社は神楽坂通りの今も人気のスポットにありますが、建物は建築家・隈研吾氏のデザインで今風に生まれ変わっています。

大胡氏が牛込氏と名を変えて城主になったあと建てた曹洞宗・宋参寺は弁天町にあり、墓地は、歴代の牛込氏の墓と同時に、山賀素行の墓があることで知られています。牛込氏の墓は都指定、山賀素行の墓は国指定の史跡になっています。

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宋参寺の山賀素行の墓

江戸時代前期に兵学を指導した山賀素行は一時期、播州赤穂にも出向いたことがあって、教えを受けた中にのちの大石蔵之助がいたことから、山賀流の陣太鼓は『忠臣蔵』では赤穂浪士の吉良邸討ち入りに欠かせない小道具になりました。実際に打ち鳴らされたことはありませんでしたが、降り積もる雪とともに、舞台効果は抜群でした。雪も創作、この夜は晴天だったということです。

牛込は明治の文豪、夏目漱石のゆかりの地です。その誕生は『知の木々舎』に連載中の『正岡常規と夏目金之助』に、喜久井町の夏目坂とともに詳しく紹介されています。ロンドン留学から帰って来た漱石が一時身を寄せた矢来町の旧新潮社の建物は神楽坂の駅出口の目の前であり、妻鏡子さんの実家のすぐ近くでした。
その漱石が晩年を過ごした早稲田南町の旧居は「漱石山房」と呼ばれ、多くの門人が集いました。亡くなった時は僅か49歳でした。
新宿区では300坪ほどのその地の一部を公園として整備し、漱石生誕150-年にあたる2017年に漱石山房記念館を建てました。 公園入り口には漱石の胸像、園内には猫塚があります。猫塚とはいうものの、「吾輩」の猫ではなく、漱石没後に家族が飼っていた犬や猫、小鳥たちの供養のために建てられたそうです。
「道草庵」では漱石や漱石山房に関する資料が展示されています。


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漱石山房

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道草庵

外堀通りにもどると、通りからちょっと入る形で、目立たないながら多くの寺院がならんでいます。
そのうちの一つ、多門院には松井須磨子の墓があることで知られています。
島村抱月とともに芸術座を組織、新劇女優として全国的に人気を博した松井須磨子でしたが、1918年のスペイン風邪で抱月が急死すると、ニヶ月後、劇場の敷地内で後を逢いました。ふたりの墓は並んで建てることはできませんでしたが、多門院には「芸術比翼塚」があります。
偶然、訪れた日(12月8日)は抱月・須磨子没後100年を記念して、寺では奉納イベントがおこなわれることになっていました。イベントで挨拶をする女優の栗原小巻さんを乗せたタクシーが、坂を登る私たちを追い抜いて行きました。

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多門院
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松井須磨子の墓

和算家の関孝和の墓は浄輪寺にあります。孝和は従来の算木を使う方法から未知数を文字であらわして筆算による代数の計算法を発明しました。その筆算を用いて円周率を小数第11位まで計算した天才です。墓は舟形をしていました。

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舟形をした関孝和の墓

ランチに立ち寄ったラビチュードはフランス家庭料理の店です。
たっぷりの前菜からはじまって、魚料理も肉料理も出る、ボリューム満点のお昼になりました。

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野菜たっぷりのメインディッシュ

ラビチュードの近くには林羅山一族の墓地、地下鉄牛込柳町へ出る途中には近藤勇の道場「試衛館」のあとなどを見ることができます。
林家の墓地は中へ入れず、試衛館跡はその標識がたつのみの、地味なスポットではありますが、江戸初期から幕末まで、流石は牛込・神楽坂、多くの人材や史跡を遺して、興味はつきない場所でした。

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