SSブログ

検証 公団居住60年 №18 [雑木林の四季]

日本住宅公団設立と公団住宅

          国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治

1.日本住宅公団法の成立

 日本住宅公団法が成立したのは1955年7月6日、公団発足は7月25日である。その翌年4~5月にはもう賃貸、分譲とも団地ができ入居がはじまった。
 56年度内に、賃貸は4月の堺市金岡を第1号に、支所別にみると大阪て17団地、東京は牟礼、青戸、国立、蓮根など5団地、関東の西本郷、小杉御殿、木月住吉など6団地、名古屋の志賀など3団地、福岡では曙、白銀など8団地、計36団地を管理開始した。1,000戸をこえた団地もあるが、多くは200~500戸の規模の団地である。普通分譲は25団地(賃貸住宅との並存団地をふくめ)、1日の千葉市稲毛を皮切りに、団地数では関西に多く、東京、川崎、横浜、名古屋、福岡、北九州でおこなっている。
 建設省が公団設立に動きだしたのは1954年である。その年の12月に吉田茂内閣が総辞職し、新たに結成された日本民主党の鳩山一郎内閣が55年2月の総選挙にのぞむ公約に「住宅対策」をかかげたのが直接の契機となった。、戦後復興のなかで住宅政策の立ちおくれは明らかで、55年8月時点でも、建設省調査によれば、住宅不足数は271万戸、都市の1人あたりの畳数は3.4畳、戦前の41年3.8畳にも達していなかった。
 鳩山内閣は第2次組閣にあたって「住宅建設10か年計画」、55年度42万戸建設をうちだし、その一環として日本住宅公団法案を5月に第22回国会に提出、6月に審議、7月成立とあわただしい動きをみせた。55年11月には保守合同して自由民主党を結成、左右の社会党も10月に統一した。
 戦後10年間、政府はまともな住宅政策、都市政策をとってこなかった。1950年5月になって最初につくったのが住宅金融公庫であり、資金さえ貸してやれば自力で持ち家を建てるだろうとの政策をとった。頭金を払える余裕など当時ほとんどの国民にはなく、貸付件数は51~53年度で年間3万戸たらずだった。同年に地代家賃統制令を改正して新築貸家への規制をはずし、民間借家の供給を促したが、住宅不足の緩和には遠くおよばなかった。戦争で破壊された都市・住宅の復旧を、政府は「民間自力」まかせに放置してきた。
 1951年6月に公営住宅法が制定された。低所得者層にたいしては、それ以前に厚生省が「厚生住宅法」を国会に提出していた。あとから衆院建設委員会が田中角栄のもとで急きょ作成した公営住宅法案を議員立法として可決し、本会議にもちこみ早々と成立させたものである。当時建設省の企画課長補佐だった川島博はのちに「最底辺の階層は相手にしない。その対策は厚生省でおやりください。住宅経営が成り立つような、一定の家賃が払える人でなければ入れませんよ」「貧乏人は切り捨てる。そうでしょう、日本の復興に貢献する人をさしおいて」「落ちこぼれ、収入ゼロを救うよりは、基幹産業の労働力確保のめに社宅的な利用に供したほうが日本の発展のためこなる」と言い放っている(大本圭野『証言・日本の住宅政策』1991年刊、日本評論社)。住宅行政が建設省に一元化され公営住宅ができると、入居対象は「国民の8割」といいながら、建設戸数は年間2、3万戸台、53年度で5.8万戸にとどまり、東京で54年度の応募は116倍にのぼった。そんななか公営住宅の供給は早くも用地の取得難、財政圧迫を理由に後退をみせはじめていた。もともと建設省の持ち家中心主義は牢固として変わらず、公営住宅といえども、のちの公団賃貸住宅も、民間借家が普及するまでの、あるいは持ち家までの「つなぎ」としかみていなかった。
 日本住宅公団法案は、このように住宅事情の改善が進まず、とくに都市では人口の集中にともない住宅需要が強まるなかで「住宅建設10か年計画」(総計画戸数479万戸、1955~64年度)が策定され、その最大の目玉として提出された。竹山祐太郎建設大臣は法案の趣旨説明で日本住宅公団の5つの特徴をあげ、1955年度は公団に住宅2万戸の建設、約100万坪の宅地造成をおこなわせ、事業費として166億円を予定しているとのべた。

 1.住宅不足のいちじるしい地域における勤労者のための住宅建設
 2.耐火性能を有する集合住宅の供給
 3.地方行政区域にとらわれない広域圏にわたる新たな住宅建設
  4.公共住宅建設に民間資金を導入
 5.大規模かつ計画的な宅地開発

55年6月の法案審議のさい問題になったのはつぎの3点であった。
l)鳩山公約の55年度42万戸のうち政府資金による建設は17.5万戸(公営5万戸、公庫7.5万戸、公団予定2万戸、その他公務員住宅等3万戸)にすぎず、これには増築3万戸分もふくめ、便所も台所もない1つの部屋を1戸と数えている。半数以上の24.5万戸は民間自力建設に依存している。なお、民間資金を利用する住宅公団設立を機に「住宅政策の根幹」たる公営住宅の予算は削減した.公庫も申込みが高額所得者に限られていく一方で、融資率を10%引き下げた。
2)政府は公営の低家賃住宅の戸数を増やすといいつつ、予算は削減し、I2坪の建屋を8坪に、8坪は6坪へと狭めて居住水準を切り下げている。新公団には一定の収入がなければ入居できない。公団設立は公営住宅制度をますます衰退させ、多くの住宅困窮者は見捨てられていく。
3)審議が集中したのは家賃問題である。公団家賃が4~5千円だとすると、月収4~5万円の者でなければ入居できない(当時は一般に住宅館の適正負担率は収入の10%までとみていた)。それ以下の所得層の救済にならない。住宅困窮者は2万円以下の人びとが大部分である。一体だれのための公団住宅かを問い、公営住宅の強化、公庫の拡充こそが住宅政索の根幹ではないかとの意見もだされた。

 日本公団法案は、衆参両院建設委員会で問題点が討議されたあと、賛成多数で可決され、4項目の付帯決議をあわせて採択することで成立をみた。
 第1条に「日本住宅公団は、住宅の不足の著しい地域において、住宅に困窮する勤労者のために耐火性能を有する構造の集合住宅及び宅地の大規模な供給を行うとともに、健全な市街地を造成し、又は再開発するために土地区画整理事業等を行うことにより、国民生活の安定と社会福祉の増進に寄与することを目的とする」とし、付帯決議の第3項には「政府は公団住宅の家賃をなるべく低廉ならしめるよう考慮すること」をかかげた。


『検証 公団居住60年』 東信堂

nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。