余は如何にして基督信徒となりし乎 №16 [心の小径]
第三章 初期の教会 9
内村鑑三
七月に上級が卒業した、そして基督教の立場はそれによってはなはだ強められた。彼らのうちに八人の基督信徒があった、すなわち『長兄』S、『宣教師坊主』0、『好人物』U、『翼竜』T、『聖公会』ジョン・K、『クロコダイル』W、『パタゴニア人』K、『角顔』Y、これである。みな実にいい奴であった、そして彼らのうちに半異教的の様子をした者があり、彼らの先祖から受け継いだ罪深い狡猾な傾向の遺物があったにかかわらず、彼らは心の底では純粋な基督教的紳士であった。我々はいっしょに写真を撮(と)り、晩餐(ばんさん)を共にし、近り将来に礼拝堂を建築することについて討議する。一年以内に残る我々八人が彼らに加わるであろう、そしてともに我々はキリストの福音を我々がそのなかに住んでいるその民のもとにたずさえて行くであろう。
九月十八日 牧師D氏、当地二到着ス。
九月十九日 日曜日 D氏ヲ訪問セリ・
九月二十日 夜、D氏ニヨリ英語礼拝。
D氏は我らの愛する宣教師H氏の代りであって、今回我々の所への二度目の訪問であった。我々は将来の教会の我々の計画について彼に話すところがあった、それに対し彼は全部の同意を与えなかった。
九月十九日 日曜日 D氏ヲ訪問セリ・
九月二十日 夜、D氏ニヨリ英語礼拝。
D氏は我らの愛する宣教師H氏の代りであって、今回我々の所への二度目の訪問であった。我々は将来の教会の我々の計画について彼に話すところがあった、それに対し彼は全部の同意を与えなかった。
十月三日 新教会建築ニ就(つ)キ相談。
数人の基督信徒が活社会に出て行った以上、我々は我々自身のものである一つの教会をもってよい、そして我々はその計画に怠慢ではない。
数人の基督信徒が活社会に出て行った以上、我々は我々自身のものである一つの教会をもってよい、そして我々はその計画に怠慢ではない。
十月十五日 牧師Den及ビP両氏、当地ニアリ。我々ハN氏方ニテ彼等二面会ス。
この年は宣教師から頻繁な訪問を受ける。DenおよびP両氏は聖公会信者である。我々の運動は宗教界の注意をひきつつある。我々は無視されてはいない。
十月十七日 日曜日 S氏方ニテ集会。六人、洗礼。午後三時、聖餐(せいさん)。
人数は我々の聖なる仲間に加えられつつある、神に感謝する二つの事が我々には残念であった、すなわち我々がこの小さな場所に二つの教会をもつようになる明白な傾向があった、一つは聖公会、他はメソジスト協会であった。『主一つ、信仰一つ、バブテスマ一つ』と、我々は心の中で考えはじめた。一つでさえ自分の足で立つだけ強くないのに、二つの別々の基督教団体をもつ必要が何処にあるか。我々は我々の基督信徒の経験においてはじめて教派主義の弊害を感じた。
人数は我々の聖なる仲間に加えられつつある、神に感謝する二つの事が我々には残念であった、すなわち我々がこの小さな場所に二つの教会をもつようになる明白な傾向があった、一つは聖公会、他はメソジスト協会であった。『主一つ、信仰一つ、バブテスマ一つ』と、我々は心の中で考えはじめた。一つでさえ自分の足で立つだけ強くないのに、二つの別々の基督教団体をもつ必要が何処にあるか。我々は我々の基督信徒の経験においてはじめて教派主義の弊害を感じた。
十一月廿一日 日曜日 当地ノ全基督信徒、集会二出席ス。
上級の人々が卒業していらい、我々は長いあいだ全員の集会をもったことがなかった。一同ともに相会する以上、我々はもういちど新しい教会について -その大小、その構造、当地にはただ一つの教会を持つことが当を得ていること、などについて- 論議する。
上級の人々が卒業していらい、我々は長いあいだ全員の集会をもったことがなかった。一同ともに相会する以上、我々はもういちど新しい教会について -その大小、その構造、当地にはただ一つの教会を持つことが当を得ていること、などについて- 論議する。
十二月廿六日 日曜日 『預定』ニ就キテ困惑セリ。
我々の小さな教会はもういちど『預定』の教義について議論する。朝の章はロマ書九章であった。
余が種々な色のインクで線を引き書込みをして相当徹底的に汚した旧い聖書の中に、余は大きな疑問符(?)が大きな釣針のようにおそろしい神秘的な華の上にぷらきがっているのを発見する。我らのパウロの悲観的結論はこれであった、『もし神が一つの器を貴(とうと)い用のために、他の器を賤(いや)しい用のために造りたもうたのならば、救われようと試みる何の必要もない、神は彼御自身のものを顧みたもうであろう、そしてそうあるまいとするあらゆる我々の努力にもかかわらず、我々は救われ、あるいは罪に定められるであろう』と。同様の疑いがあらゆる国土のあらゆる黙想的な基督信徒を苦しめる。いや、うっちゃっておけ、我々は預定の教義を了解することができないからとて聖書と基督教とを捨てることはできないのだから。
我々の小さな教会はもういちど『預定』の教義について議論する。朝の章はロマ書九章であった。
余が種々な色のインクで線を引き書込みをして相当徹底的に汚した旧い聖書の中に、余は大きな疑問符(?)が大きな釣針のようにおそろしい神秘的な華の上にぷらきがっているのを発見する。我らのパウロの悲観的結論はこれであった、『もし神が一つの器を貴(とうと)い用のために、他の器を賤(いや)しい用のために造りたもうたのならば、救われようと試みる何の必要もない、神は彼御自身のものを顧みたもうであろう、そしてそうあるまいとするあらゆる我々の努力にもかかわらず、我々は救われ、あるいは罪に定められるであろう』と。同様の疑いがあらゆる国土のあらゆる黙想的な基督信徒を苦しめる。いや、うっちゃっておけ、我々は預定の教義を了解することができないからとて聖書と基督教とを捨てることはできないのだから。
『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫
2017-04-23 17:05
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