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論語 №28 [心の小径]

六六 子のたまわく、上(かみ)に居て寛(かん)ならず、礼を為(な)して敬(けい)せず、喪に臨んで哀(かな)しまず。われ何を以てこれを観(み)んや。

                                      法学者  穂積重遠


 「喪に居る」といえば親の喪に服すること、「喪に臨む」といえば他人の葬式に会葬すること。

 孔子様がおっしゃるよう、「人の上に立って寛大でなく、礼式を行う場合に敬意を欠き、葬儀に参列して哀悼の気持がないようでは、全く見どころがないではないか。」


六七 子のたまわく、里(さと)は仁(じん)を美と為す。択(えら)びて仁に処(お)らずんば、いずくんぞ知を得ん。

 「仁に里(お)るを美と為す」とよむ人もある。

 孔子様がおっしゃるよう、「住むには仁徳の風俗厚き地方がよろしい。住むべき『仁の里』の選択ができないようでは知とはいえない。」

 三遷(さんせん)した孟母(もうぼ)などは、「選択んで仁に処る」知者だったのだ。


六八 子のたまわく、不仁者は以て久しく約に処(お)るべからず。以て長く楽に処るべからず。仁者は仁に安(やす)んじ、知者は仁を利す。

 「約」は貧賤(びんせん)困窮、「楽」は富貴(ふうき)安楽。

 孔子様がおっしゃるよう、「不仁な者は久しく逆境にありえない。しばらくは辛抱もするが、まもなく苦しまざれに悪事をはたらく。また長く順境にもありえない。はじめは自制謹慎もしとうが、やがて意満ち心ゆるんで驕慢奢侈(きょうまんしゃし)に流れる。仁者は仁が身についているし、知者は仁の利益を知っているから、境遇に左右されぬが、不仁無知なる者はそうはいかぬ。」

 最後の二句について伊藤仁斎が、「仁者の仁におけるは、なお身の衣に安んじ足の履(くつ)に安んずるが如し。須臾(しばらく)も離るればすなわち楽むこと能わず。これこれを安と謂(い)う。知者の仁におけるは、なお病む者の薬を利し、疲るる者の車を利するが如し。常にこれを相安んずること能わずと雖も、探くその美たることを知りて捨てず。これこれを利すと謂う。」と言ったのは、要領を得ている。今日の私たちはよほどシツカリ「久しく約に居る」覚悟をかためねばならぬ。かりにも取り乱して、不仁不知と世界の笑いものになりたくない。


六九 子のたまわく、ただ仁者のみ能(よ)く人を好(この)み、能く人を悪(にく)む。

 「好」を「よみす」とよむ人もある。

 孔子様がおっしゃるよう、「ある人を好みある人をにくむのは、まぬかれぬ人情だが、凡人は私情がまざるから、好むべき人をにくみ、にくむべき人を好むことにもなる。ほんとうに人を好み人をにくむことは公平無私な仁者にしてはじめてできることじゃ。」


七〇 子のたまわく、苟(いやしく)も仁に志せば、悪しきことなし。

 「苟」を「まことに」とよむのが普通のようだが、「恵なし」という消極句につづくには、「いやしくも」の方が力強い。

 孔子様がおっしゃるよう、「ともかくも仁に心を向けていれば、過失はあろうとも、悪事ははたらくまい。」


『新訳論語』 講談社学術文庫



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