出会い、こぼれ話 №41 [心の小径]
第40話 まゆつば
教育家 毛涯章平
私が少年時代を過ごした田舎は、ずいぶん辺びな所だったので、夕方暗くなりぎわにお使いに行かされるのが、何よりもいやでした。
それは、西田のやぶと呼ばれる大きな竹やぶの中を通って行くのがとても怖かったからです。
その西田のやぶには、狐が住んでいて、通る人を化かすという噂があったので、そこを通る時は、前を見すえたまま、体を固くして小走りにかけぬけて行ったものでした。
そんな時、自分の足音が誰か後ろから追いかけてくるように思えて、背すじが寒くなりました。
ある時、私があまり西田のやぶを怖がるので、父が「狐に化かされない秘密の法」を教えてやるといってそっと教えてくれました。
それは、狐がやぶのどこかにいて、通る人の眉毛を一本一本数えて、全部正確に数え終わると、化かされるのだ。だから西田のやぶに近づいたら、まず自分の眉毛を唾(つば)で十分濡らすことだ。そうすれば、狐が数を間違えるから、絶対に化かされることはな
いというのです。
私はそれからは、この秘法を実行しました。すると馬糞がおまん十に見えたり、木の葉がお金に見えたりすることはありませんでした。不思議なことに、西田のやぶが怖くないのです。もう走らなくても平気になりました。
やがて大人になってからある時『まゆつば』ということばが、父から授けられた『狐に化かされない秘法』から生まれたことばであることを知りました。
私はその時、あの西田のやぶの中を、眉毛を唾でたっぷりと濡らして通った少年の日を、たまらなく懐かしく思い出しました。
そうして、あの秘法をはじめ、いろいろなことを教えてくれた父親を、改めて有難く思い出すのでした。
『章平先生の 出会い、こぼれ話』 2015年豊丘村公民館解放
コメント 0