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ロシア~アネクドートで笑う歴史 №29 [文芸美術の森]

第二章 民衆たちのテーブル・トーク
  市民たちが見たレーニンとスターリン 3

                               早稲田大学名誉教授  川崎 浹 

タブー

 つぎのアネクドートは「一九二〇年代」とおおざっぱな年月が記されている。

 ラビノビチ(これは典型的なユダヤ人の苗字)はプラカードに「レーニンは死すとも、かれの事業は生きている」と書いてあるのを見て、いった。
「あんたが生きていたほうがよかった、あんたの事業が死んでも」(一九二〇年代)

 レーニンが亡くなったのが一九二四年なので、作品はそれ以後に属するが、右のプラカードがいつごろに流行したかで、さらに制作年の時代の枠がせばめられよう。スターリンがレーニンの事業の僭称(せんしょう)老となり、キーロフやブハーリンなどじゃま者を消し、ソ連作家同盟を創設し、党の規約を強化したのが二〇年代後半である。
 レーニンの人物像はスターリンやフルシチョフらと異なり、ゆるぎなき栄光のもとに維持されてきた。民衆がかれを笑いの対象にすることはタブーとされた。『収容所群島』の刊行がもとで七四年に国外追放されたソルジェニーツィンが、ペレストロイカ期になってなお数年も本国で市民権を得られなかったのは、かれが「聖なるレーニンを冒漬(ぼうとく)した」からだった。
 それほどにレーニンは聖化されていたが、国民のすべてに洗脳が成功していたわけではない。そのため逆にレーニン崇拝がまったくの対立物に転化して、つぎのようなアネクドートになることもあった。

 レーニンは死んだ。だが身体は生き残っている。

 レーニン廟にはいまだに遺体が保存されている。このアネクドートはあきらかに「レーニンの事業は生きている」のもじりである。
 ヨシフ・ラスキソは『フリガン正統派事典』で、ピョートル三世を僭称して反乱を起こしたプガチョフがモスクワ中を引きずりまわされたことを念頭におきながら、レーニンに直接あてたという大胆な人物の手紙を引用している。

 僭称者の死体のように、あんたの死体はモスクワ中で引きずりまわされるだろう。(一九二二年五月二九日、レーニン宛ヴォロノフ書簡より)

 書簡を書いた人物がだれなのか、書簡がどのような形で残されたのか、事情は不明だが、この言葉がアネクドートとして地下を渡り歩いたので、ラスキンがとりあげたのだろう。

つり目の男

 さてレーニンにも関係してくるので、脇道にいったんそれるが、笑いの世界に道化役がいるように、アネクドートの分野でも「イワーヌシカのばか」や「チャパーエフ」や「シュティルリツ」や「チュクチ人」という特定のタイプがいる。
 チュクチ族はシベリアのマガダン州にいるトナカイ猟の遊牧民族、人口一万数千人。モンゴロイド系で、顔は我々日本人とそっくりである。アネクドートではいつも笑い者あつかいを受ける。チュクチという発音もなんとなくユーモラスに聞こえる。

 レーニンが何国人なのか、フランス人とロシア人とドイツ人とチュクチ人が論争した。
 フランス人はいった。
 「レーニンはフランス人です。というのは言葉訛りがフランス語だから」
 ドイツ人はいった。
 「みんなが当時レーニンはドイツ人だといっていた。かれの母親がドイツ人との混血だったし、それに一般にみんなが    レーニンをドイツのスパイだと非難していたではないですか」
 ロシア人はいった。
 「レーニンはもちろん文句なしにロシア人だよ。レーニンが何国人であるか、(我々の敵)どもがなんといおうと、我々はぜったいにレーニンを引き渡さない」
 チュクチ人がいった。
 「レーニンはチュクチ民族のひとでした」
 「どうして、そんなことをいうのですか? レーニンがチュクチ人だったなんて」
 「すばやく動く賢い目をしていたし、それに目がつりあがっていました」

 それぞれが勝手なことをのべているようで、レーニンの民族籍という一貫した主題と筋があり、さらにレーニンを自国民として取りこみたいという「内的な論理」がある。ロシア人はずいぶん情緒的な発言をしているようだが、当時の国内状況を知るならば、かれらの愛国者ふうの言い分にも時代の確かな「論理」があることがわかる。だが「論理」というものは、それを支える枠組みが崩壊すると、宙に浮いてばらばらの断片になる脆さをもっている。したがって「論理」は相対的なものにすぎぬことを念頭におき、さらにアネクドートの付帯条件に「二律背反」性があったことを思いだそう。
 右のアネクドートにおける「二律背反」つまり矛盾は、並行して示される各国代表の視点のちがいとなって潜伏しているが、とりわけ一つの主題を論じるのに大国あるいは「文明国」の論理と、極端に小民族の原始的な遊牧民の論理を同じ土俵のうえで闘わせていることにある。
 結末がどうなるのか聞き手はまったく予想がつかない。この作品も聞き手の期待と「原則的に一致しない答え」を隠している。チュクチ人の「論理」が西欧系の国民代表つまり受信者の意表をつくもので、しかも今までレーニン廟の棺のなかに隠してきたが、じつは隠すことのできぬ事実を指摘している。
 精神的に聖化され触れてはならぬ「レーニンの人相」を衆目にさらすことで、地上にひきおろし、哄笑をよびおこす。「つり目」タイプの日本人よりは、「つり目でない」異質の人種のほうがチュクチ人の論理に虚をつかれ、してやられたという感想をもつのではなかろうか。私の目の前でこれを読んだロシア人ははじけるような笑い声をたてた。
「ドイツのスパイだった」というレーニンへの疑惑は、擾乱(じょうらん)の首都にむけてレーニンが鈴で封印されたドイツの貨車でひそかに送りこまれたための誤解だろう、と私は考える。
 ただし近年、旧ソ連共産党中央委員会に属するモスクワ古文書館の文献が部分的に公開されるようになった。特殊保存部で厳重に密封されていた一件書類「ウラジミル・イリチ・レーニン、索引、四-三-五二」が陽の目を見、それによって一九一七年、革命の年に、総額一五〇〇万マルク以上の金額がレーニンに支払われた事実があきらかになった。当時の紙幣にして膨大な金額の内訳は革命の宣伝費、武器購入費、そしてレーニンとトロッキイの個人費用にあてられている。 

『ロシアのユーモア』 講談社選書                                                       


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