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フェアリー・妖精幻想 №59 [文芸美術の森]

 シェイクスピアのフェアリーたち 3

                                 妖精美術館館長  井村君江

『嵐(テンペスト)』の世界とエアリエル

 リチャード・ダツド(一八一七-九六)の『黄色い砂浜に来たれ』(一八四二)は『嵐』のプロスベロが支配する魔の島に、妖精たちが難破した人々をいざなっている図である。中央にアーチのように描かれた、岩とも雲ともつかぬ天蓋の上、楽師たちが吹く笛の音に合わせ、天空から砂地へとめぐるように妖精の群れが踊っている。彼らは透き通った夕顔の花の三角帽子を頭にのせ、土蛍のついた妖精の杖(フェアリーウワンド)を手にし、薄い衣をひるがえしている。
 ダンビイが画面の前方に小さなドングリをおいたように、ダッドは貝殻を置くことで、妖精の小さなプロポーションを目立たせている。
 暗い空に溶けこむような、海の色と空の色合いが嵐を感じさせ、魔の島の雰囲気をよく出しており、詩的な情緒をかんじさせる画面になっている。ダッドが狂気に陥る直前に展覧会に出品した作品である。
 デヴィッド・スコット(一八〇六-四九)のエアリエルは、トンボの翅をつけ華奢な身体をそりみにして、白い喋の飛ぶ夕焼け空に漂わせ、長い金髪をなびかせて、怪を超越したような存在になっている(『エアリエルとキャリバン』一八三七)。
地上には空気の精エアリエルと対照的に、土にまみれたキャリバンがカエルとともに横たわり、その手は薪と蛇をつかんでいる。
 荒地のような地上には、頑丈なサボテンが描き込まれているが、その筆致と色彩はダイナミックで、ラファエル前派の人々に賞讃され、「イギリスのドラクロワ」と呼ばれている。
 そのラファエル前派の代表的な画家である、ジョン・エヴェレット・ミレイ(一八二九-九六)の『ファーディナンドを誘惑するエアリエル』(一八四九)は、ロイヤル・アカデミーに出品された作品で、今日ではよく知られたものである。展示された時には、緑のエアリエルが普通の女の子の姿であったことなどから、評判が良くなかった。
 しかし貝殻のハープを手に、音楽でファーディナンドを魔の島に誘いこんでいるエアリエルと、そのまわりに輪になってつらなる、コウモリに似た奇妙な顔と姿の緑の妖精たちの、超自然的な部分と、細密に描きこまれた草木や小鳥、キノコの自然物、ファーディナンドの服や靴の素材感の写実性は、対照的でありながら一体感があり、この給の世界を見事に構成している。
 同様のテーマで描かれているヘンリー・ストック(一八五三-一九三〇)の絵でも、ファーディナンドの写実的な人物描写と、エアリエルの超現実的な妖しさのたいしょうが見事に出ている。
 エアリエルは金髪をなびかせ、白い衣の女性としてえがかれているが、中空にかかるように逆さのポーズに描くことによって、異様な雰囲気を醸(かも)し出すのに成功している。
 ファーディナンドの当惑し、驚愕したような眼付きと、中空に見開かれたような妖しいエアリエルのまなざしが、この場面にふさわしい不可思議な諧調をひびかせている。
 フィッツジェラルド、ヘンリー・タウンゼンド(一八一〇-一八九〇)、ジョセフ・セヴァン(一七九三-一八七九)がそれぞれに描いた作品は、プロスベロに仕える十六年の使魔(ファミリーエール)としての年期が明けたら、こうしたいというエアリエル自身の夢を描いたものである。

  蜂とならんで蜜を吸い
  寝床にするのは桜草
  ふくろうの歌が子守歌
  蝙蝠(こうもり)に乗って空を飛び
  楽しい夏のあとを追う
  枝から垂れた花々の下
  愉快に遊んで暮らすのさ
              (第五幕一場)

 三人の画家とも、エアリエルを男とも女ともつかぬ無性的な姿に描いているが、フィッツジェラルドとタウンゼンドはやや女性的で、セヴァンは少年に近い。
 フィッツジェラルドの印象的なエアリエル(一八五八-六八頃)は、サンザシの白い花の中に身体が溶けていくかのように描かれ、その日は狂者をたたえ、異界へ誘うようである。月の下の花のベッドに身をのばして安らうタウンゼンドのエアリエルは、天使のような鳥の羽をたたみ、魅惑的なまなざしを投げかけている。
 コウモリに乗り、孔雀の羽をひるがえして空を飛ぶセヴァンのエアリエルもまた妖しげな目つきであり、目の描き方によってこの世でない存在としての妖精をきわだたせようと、それぞれの画家たちが試みていたことがうかがえる。セヴァンの水彩は、ヴィクトリア・アルバート美術館所蔵になる油絵の習作であるにもかかわらず、妖精の軽やかさはかえって水彩の方によく表現されているようである。
 多くの画家たちが競うようにシェイクスピアの名場面を描き、それぞれの技量を発揮し、さまざまな特色ある妖精を生み出している。フィッツジエラルドは場面だけでなく、ひとつの台詞から独白の画面を構成し、いくつかの作品に仕立て上げている。『嵐』のプロスベロの一句「我々人間は夢と同じ素材で作られている」というところから『夢を作っている素材』(一八九六-七)という給を描いている。
 しかし初期の絵においても「夢」は、この画家の好んだテーマであり、一八五六年の『とらわれた夢見る人』や『夢』という絵においても、その画面に登場させられているのは、奇怪な姿をした生きものたちであり、妖精と名づけてもよい存在感の稀薄な生き物たちである。
 夢見る人の心象風景は、その人の実現してほしい望みであり、画家本人らしき人物は美しいモデルを描く夢を見、眠れる美しい女性は夢で恋人と会っている。そのまわりには奇妙な夢の破片、欲望の象徴とみえる生きものたちがとりまいている。
 シェイクスピアの一句が画家の描いていた主題に符合し、名場面を作り出したようで、美しい色調とあいまって画題を強くうったえかけてくる作品になっている。

H.タウンゼント「エアリエル」.jpg

                     ヘンリー・タウンゼント 「エアリエル」 

『フェアリー』 新書館


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