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シニア熱血宣言 №90 [雑木林の四季]

 重なる東京大空襲の記憶

                                      映像作家  石神 淳

 昭和二十年三月十日は、東京大空襲があった日だ。
 大空襲の朧げな記憶が、毎年その日が近づくと、脳裏を焦がしながら甦ってくる。六年前は、東日本大震災が発生、東京大空襲記憶の翌日だから、記憶が重なり合ってしまう。平成二十九年の三月十日の新聞記事とテレビ番組表には、東京大空襲の記事は、何もない。
  七十二年前の東京大空襲の記憶は、焼きついた幻灯写真のように朧な幻影だ。大泉学園の自宅の庭先で、東側の夜空を焦がしながらどす黒く燃え続け、闇と焔の境目を無限になくしていた。
 それまでも、空襲はあったが、大泉の新興キネマ撮影所を狙った(軍事施設と間違え)爆弾が田圃の中にバラバラ落とされ、流れ弾で、防空壕が逆さまになるような恐怖の体験に襲われた。防空壕の湿った赤土が崩れ、異様な匂い。その瞬間、てっきり死んだと思った。シューという音と、魔法瓶のような型の爆弾が瞬間瞼に焼きつき、無音の真空状態----、そのあとの記憶はない。
  東の空がどす黒く燃えた夜。灯火管制の掘炬燵の中で、反対側に寝ていたオヤジが、「もう駄目かもな・・・」と、潜った声で呟いた。絶望的な闇-----。炬燵の練炭から、危険な一酸化炭素の臭いがしていた。
 追われるように、学童集団疎開で群馬県新里村に避難したのは、その東京大空襲の直後だが、なぜか疎開先の小学校には受け入れて貰えず、勉強もろくにせず、喰うや食わずで、小川のスナモグリを捕まえ、風呂の竈口で焼いて喰った。紫色に熟した桑の実なんかはご馳走だった。農家の軒先から、馬のエサにするカチンカチンの黄色いトウモロコシを盗み喰い、浮浪児のような毎日だった。下着なんかを洗濯してもらった記憶はない。
 傍目に、よほど可哀相に見えたのか、新里村のジイサンたちが、郷土芸能の「八木節」を慰問してくれた。
  「ハァーァ、チョイとでました三角野郎ゥが、四角四面の櫓の上デェー、音頭とるのはオーソレナガラァ」チョンチキ・チョンチキ・チョン-----。
 八木節と恩賜の菓子の三粒のココナッツビスケットの思い出が、疎開生活での唯一記憶に刻まれている。3・11の罹災の人たちは、6年間も必死で生き抜いてきたことを慮ると、我が身を身を捩られるよにやるせない。
 八月にポツダム宣言を受諾。十二月になって、やっと焼け野が原の東京に帰り着いた。
 荒川の鉄橋を列車が渡ると、東京の街がだんだんト闇に染まり、焼け野が原に、裸電球の灯がポツリまたポツリ。焼け跡の煙突が幽霊のように、車窓を流れ去る。
 上野駅を包み込んだ、空襲の焼け跡と食べ物が腐敗した異様な臭い。それが子供心に、敗戦を実感させる都会の臭いだった。
 それでも大泉学園の借家は、疎開に出るときと変わらず、防空壕は、何事もなかったように埋め戻されていた。
 思えば、この地に住み着いて七十五年。当時は板橋区だったが、戦後すぐに練馬区が誕生した。
 勤め先では、「大泉村」なんて揶揄されもしたが、六年前の未曾有の東日本大震災大震災から、練馬区は、人口が増え続けている。 西武池袋線が高架になり、田圃も消え、拡張された道路では、朝は自転車通勤の列。電動自転車のママチャリが、幼児を前後に乗せ、「ここ退け・そこ退け」とばかり突進して来るから、恐怖で萎縮して立ちどまってしまう。
 中には、スマホ片手の勇敢なママチャリもある。そんなママチャリを、親子ともども転倒させ怪我でもさせたら、と思うと、想像しただけで震えがくる。 そう簡単に、運転免許を自主返納できない事情も、高齢者側にあるのだから、認知証に判定されない限り、恐る恐る、安全運転に努めなくては。
 高齢者の運転する事故発生が多発。とかく、目の敵にされがちの昨今だから高齢者はつらいね。
 六年経って余震がおさまらない、東日本大震災の影響は、都会のベッドタウンにまで影響している。
 東京大空襲の記憶が、とんだ話しに飛び火して恐縮だが、災害が、いつ襲って来るか不安な日々だ。「そんな事を考えていたら、生きて行けないって」「ごもっとも」。
 でも、あと数年は生きて行かねばならんのだ。


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