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パリ・くらしと彩りの手帖 №119 [雑木林の四季]

ロダンもこれで一安心?あとは私に思いがけないことばかり。

                         在パリ・ジャーナリスト  嘉野ミサワ


カミーユ・クローデル美術館オープン

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 どの人がどの人の弟子で、どうなって、というような事を知っている人にとってはその関連比較がまた興味あると事に違いないのだ。そしてもともと美術館の建物だったとはいえ、新しく発足するにふさわしい建物に変身し、これを取り巻く街並みはどこか私たちがいつも見慣れたパリに近い街のものとは違って魅力あるところだ。ここのすぐ近くにトロワといいう町があるが、確かここにはあのルノワールが若い頃住んでいたところで、ルノワールの彫刻など、いろいろと見るものがあるし、またこの街には現代美術を集めていたコレクターがあって、街にすっぽり寄付したという事で、昔々、私が訪れた頃、驚くほど当時の最先端の美術作品が見られたという記憶がある。パリから来て、一回りするのに最適のコースになることだろう。今回できたカミーユ・クローデル美術館と合わせて、午後からのプロムナードになるに違いない。
 今回の彫刻家ロダンの死後100年の機会の大展覧会によって18−19世紀の美術、特に彫刻が新しい目で見られている。そしてまた、この機会にたくさんの本が出版された。それぞれの特徴は違うけれど、その中で、ロダンの研究者の一人であるヴィクトリア・シャルルの新しい本”ロダン”(出版社エイロル)は研究者たちが資料として使えるようにも考えているし、そして何よりも写真がたっぷりとあっていい。訳をつけなくても楽しめるだろう。訳があったら更にいいだろうけれど。日本でもどこかの出版社が考えてくれる事を切に希望するところだ。

勅使河原三郎

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                                                                                                                                               さて今度は少し彫刻を離れて、本当の人体の話だ。今年も勅使河原三郎がパリのシャイヨー劇場に来るというので、実は楽しみにしていた。電話がきて、来るでしょうと言われたので、あの人のは楽しみですと答えると、では、公演の日が私の休みとぶつかるから今から入れておく、当日は誰かここの人に頼んでおくから、と言われてホッとしたのが実情。そして、その日、頼まれていたからという若いお嬢さんとようやく会えて、案内されたのは真ん中の席。ふと気がつくと前の人は二人前はありそうな横幅の女性で、髪型もそれに合わせているといった感じ。勅使河原氏はこういう事には関係なく舞台の、奥行きではなく、幅で作ったに違いない演目を「柔軟な沈黙」(Flexible Silence)と題している。まるで端から端まで、全員が移動する形で作ったような舞台で、リズムに合わせて、一番左の端に入ったと思うと次は右の一番はじ。その度に、私は首を思い切り伸ばすと見えて来る。と言ってうっかりしていれば、次の人の背中になるからストップ、こうして終わりになった。左と右の間には消えた時間から考えてもいろいろな事はやっている暇はない筈だ、とすると全体を通して左ー右、右ー左と移動していただけなのだろうか、理屈をつけて、腹が立たないように自分を諌めた。それにしても何たる不運。殆ど上下もない動きに見えたが、私から見えないところで、いろいろな動きを見せていたのだろうか?もっと早くに出て行くか席を換えてもらうべきだったのだろうか?一人で、問答を繰り返しての夕べだった。舞台を作る人はこういう場合もある事を想定して、少なくとも舞台の幾つかの地点で盛り上がりを仕掛けるなどの工夫をしてもらいたいものだ。勅使河原三郎だったら、それだけでも私の機嫌は治ったかもしれないのだ。前回の公演の事を思い出してみた。真ん中でこそないけれど椅子が段になっていたから、問題なかった。パリの昔からある方のオペラ座にはロッジュと呼ばれる部分があって、昔はその中に主人や召使の一族が入ったもので、お付きのものなどはたとえ座れても舞台が見えない、音楽もあまり届かないようなところだから、こんなところに席が来るとひどいものだ。それで、これから、こういう席をなくすための工事をする予定とオペラ側は繰り返している。でも、この150年前のパラスに手を入れるといいうのは、このパラスの持つ階級制そのものの否定だから、難しい事になるかもしれない。結局は古い方のオペラ座(オペラ・ガルニエと建築家の名前で呼んだり、パレ・ガルニエと古い方をパラス扱いにして呼んだりしているが、昔はオペラを見に来る人は貴族や富裕層だったから、あれで十分だったのだろう。今は階層の問題ではなくて、オペラが好きかどうかということとあとは安いものは5ユーロから切符はあるから、それほどお金の問題とも言えなくなっているのだ。バスチーユができる前に、私はフランスに来てすぐからパレガルニエの方で、定期購入のメンバーになっていたが、学生でも買える程度だったのである。選挙で、左派が勝利して、ミッテランが大統領になった時に作ったのがバスチーユ・オペラと国立図書館で、これらはすでにフランスの王様達があの時代に実現したことばかりで、オペラ座をフランス革命の象徴の広場であるバスチーユに作ったところに意味があるのだ。これは建築コンクールで選ばれたカナダ人が作ったもので、大体出来上がった頃にこの建築家と一緒に見学して回れたのはありがたかった。考えてみれば、リヨンのオペラを作ったフランス人の建築家はあれ以来、アラブの国々などからの注文も多く、世界的になってしまって、出来たばかりのリヨンのオペラを嬉しそうに一緒に見学して、いろいろ話してくれたのは今となっては楽しい思い出の一つだ。建築家自身の説明で、彼が当時の常識に反して、オペラ座に赤や黒の金属板を使ったので、キャバレーみたいと言われた上、「オペラ座の周りにつけた光が赤いので評判悪いんだ。ほら昔の”紅灯の巷”みたい、と言われるんだ」と。今から2、30年は昔のことだ。それから、宝飾店のカルチエが作った現代美術館の建物をパリに建てた。2016年に30周年記念をやったところだ。これが大いに話題となって、次から次へと注文が舞い込んだ。今ではフランスを代表する建築家として、アラブの国にルーヴル美術館を作り、丁度今頃披露されることだろう。ルーヴルという名前をそんなに軽々しくつけられては困るとフランスでは議論が高まっていたが、その火も石油で消し止められたらしい。本物のルーヴルの方ではアラブ方面から来ているルーヴルの宝物を十分に観賞してもらえるように、ルーヴルの中に入り口も独自の入り口まで持つルーヴル宮殿の一翼全体をアラブの美術の専門部分として、これだけでも訪れることもできるようにしたのも数年前のことである。ここにある宝物は、少なくとも最初はただで持ち帰ったものが多いのかも知れない。いや、はっきり言って、発掘者が研究のために持ち帰ったものが多いはずだ。こうして考古学者の研究室にあったのだ。もしそうでなかったら、これらの宝はルーヴル美術館ではなくて、石油のおかげでとっくにエッフェル塔よりも高い新しいビルに取って代わられていたのかも知れない。

パリの日本人音楽家たち

  音楽の記事を書いているものと、音楽学者とがいっしょになって作ったPMI と言うグループがある。Presse Musicale iInternationale 国際音楽記者会とでも訳しておこうか、でもこれをパリで作ったのは、フランスの放送局を中心に音楽記者として活躍していたアントワーヌ・リヴィオというスイス人だったが、数年間は本当に幾つかの国から年1回の集まりとなるといろいろの国からも参加があったけれど、結局は長期的には難しいことで、各国で同じようなグループを作るようになったらしい。という訳で、今もインターナショナルと言っているのもまさにその通り、何カ国の記者達がいるかわからないが、結局は、フランス、それもパリに住んでいるものが圧倒的多数なようだ。この記者会に出席するときには、みんなが音楽の話をする。当たり前に思われるだろうが、例えば私のように美術にもワインにも情熱をもって向き合う人間は、ああそれでは音楽の専門ではないのかということになる。これは音楽の方は本当はわかっていないんだよというに等しい。こういう人の書く記事は、「2楽章の最後のところで、ヴァイオリンの弓が滑って、音がきまらなかった」という類の書き方をする。やっぱりしっかり見ているんだなと感心できる人もいるし、また演奏者の全体がただ気に入ってしまう人もいる。今すでに時々記事を書いているという人が音楽で知られる日本の雑誌のレギュラーになったとかで、パリにいる日本人音楽家達が「恐ろしいことだ」と騒いでいた。私はその人を知っているけれど、書いたものは見たこともないし、恐ろしくもない。これがどうなっていくか、興味はあるけれど、ここで日本の雑誌が簡単に読める訳ではないから、このインタナショナルのグループの中の小さな出来事に過ぎないことなのだろう。
 似たようなことなのだが、フランスには幾つかの街に国立の音楽学校がある。その中で、パリの国立がやっぱり一番光っているから、国立と言えば、誰でもパリのを考えるのだろう。地方の数都市にある国立でいい成績の人がパリで最終となり、あとはどういう人の弟子になるといった問題となるのだ。そしてもう一つ厄介なことに、それぞれの町が持っている音楽学校の他にフランス全国に国立の名をつけたところがかなりの数があって、それは意外に小さいところだったり、つまり自分たちではまかないきれないところが国の援助で作っているといった、いろいろの存在があるらしい。そうなると、そういうところで教えている人が故郷に帰って、コンサートなどをするのに肩書きに国立音楽学校教授などとしてしまう、あるいは、本人の意思ではないのに、うまく利用していくオーガナイザーがいたりして、そうなると、そんなコンサートのチラシが目に入ったら大変、嘘の肩書きを使っていると言われてしまうのだ。そういう意味で、音楽の人たちは色々とデリケートであると同時に、そちらの方もややこしいのだ。今まで、付き合っていた人同士が、その一枚のチラシによって嘘つきになり、口も利かなくなるのを何回見てきたことか。狭い、狭い世界なのである。例えば、私たちの属するPMIのメンバーに、そこの催しにおいで下さいと声がかかることがあるが、条件がはっきりしないときや、交通費をもってくれないなどというときには受けてはいけないと言われる。でも今から交渉しても遅いでしょう、と責任者に云うと、あなたは良いかもしれないけれど、他の人にまでそうしてくれということになるから気をつけなさい。と言われるのだ。色々とむずかしいものだ。

 さて、後2週間ほどでパリの隣町ブーロニュの森の向こうの島、スガン島にできた大コンサートホールの落成式となる。この数年で、パリには3つの大きな、そして音響も抜群な、ホールが生まれ、が生まれ、ぜんせいきか悠然と構えていた、シックなホールが次々とジャズのホールに変身したりで、、嬉しいと同時に、何か後ろ髪を引かれるような思いもする。今まで、自動車のルノーを作ってきたあのセーヌのスガン島の上全体がこのコンサートホールにかわるという感じだ。しかもその建築をしたのはすでに第2のポンピドーセンターをフランスの東に作った日本人建築家。こんなに沢山コンサートホールができてしまったら、私たちは一体どうなるのだろう!


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