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文化的資源としての仏教 №4 [心の小径]

文化的資源としての仏教4                

                              立川市・光西寺住職  寿台順誠

                          往生考⑵――大往生:往生=死

 「大往生って、どういう意味でしょうか?」
 ある人の葬儀を執行したとき、喪主からこのように聞かれたことがある。その時の故人は既に96歳になっておられたので、おそらく親類などの(複数の)弔問客から、「大往生だったね」などと言われたのであろうと察せられた。喪主はそうした言葉を聞いているうちに、その意味を意識的に考え始めることになったのだろうと思われた。
 その際とりあえず私は、「〈安らかに亡くなること〉というほどの意味ではないでしょうか。或いは、故人が既に96歳になっておられたからそのように言われたということであるならば、〈人生を十分に全うした上で、安らかに亡くなること〉とでも言ったらよいかもしれませんね。例えば50代でガンのため亡くなられた人について、〈大往生だった〉とは言いませんからね」などと答えておいた。いずれにせよ、「大往生」という場合の「往生」の意味は、一言でいえば「死」を意味している。
ただ「大往生」と言うためには、ある程度の年に達している必要があると思われるが(何歳から「大往生」と言えるかを確定することは、平均寿命が何歳かによっても変動すると思われるので、非常に困難であろう)、しかし単に年を取ってさえいれば「大往生」と言えるかというと、あながちそうでもないであろう。最近、橋田壽賀子が『文藝春秋』(2016年12月号)に「安楽死で逝きたい」という文章を書いて議論を呼んでいるが(『文藝春秋』2017年3月号)、91歳になった人がこのような主張をしなければならないということ自体が、年を食ってさえいれば「安楽に死ねる」わけではないことの証拠であろう。それどころか、現在(既に2007年に)、超高齢社会(65歳以上の人口が総人口に占める割合が21%を超えた社会)に達した日本においては、むしろ年を取って孤独感や認知症への恐怖感が増せば増すほど、「安らかな死」から縁遠くなるという皮肉な現象が生じてきているとさえ言えるかもしれない。
 実は私はこの間、安楽死・尊厳死に関わる研究をしてきた(少し詳しく記すと2011年4月から早稲田大学大学院人間科学研究科修士課程において「生命倫理学」の勉強を始め、その過程で安楽死・尊厳死について研究するようになったが、現在は2016年4月から研究の場を同大学院社会科学研究科博士後期課程に移して、「日本文化論」という専攻分野の中で「日本文学における安楽死と尊厳死」というテーマと取り組んでいる)ので、上記『文藝春秋』に書かれていることから、知識的な意味において新しく学んだことは何もない(また、私はこのエッセイでは、細かい専門的な問題に立ち入ることはあまりしないことにする)。ただ、同誌3月号の特集に紹介されたアンケート結果を見ると、安楽死・尊厳死に賛成の人の方が反対の人よりもかなり多い(おそらく以前よりも賛成の人の割合は増えている)ということには注目される。つまり、それだけ多くの人が、現在の長寿社会でこそ「安らかに死ねない」という苦悩を抱えており、そうであるがゆえに、かえって「安楽な死」或いは「尊厳ある死」を求める思いが切実になっているのだと思われるのである。
 以上、「往生」という言葉の世俗的・一般的用法としては、まず「死」という意味でこの言葉は使用されることを、「大往生」という言葉をカギにして述べてきた。そして、これに関連して、他方では医療技術の発展等によって、現代人は非常に長期にわたる「死にゆく過程(dying process)」をそれと意識して生きざるを得なくなり、その分だけ長く「病苦」「老苦」、そして「死苦」を深刻に感ずる時代にあって、現在どうしたら「安らかに死ねるか」が多くの人の切実な問題になっていることを確認した。
 しかし、今回私が敢えて言っておきたいことは、「往生」ということと、現在盛んに議論されるようになった「安楽死」「尊厳死」「自然死」「平穏死」等の言葉が、あまり結びつけて語られていないのは問題ではないかということである(「平穏死」については、石飛幸三『「平穏死」という選択』幻冬舎、2012年参照)。或いは、現在では「安楽死」等の流行現象に乗って議論をする場合、それを「往生」(つまり宗教的な概念)と結びつけることは敢えて避ける傾向があるのではないかとさえ思われる。しかし、私は伝統的な「よき死」の表現とも言える「往生」と、現代的な「よき死」を示す「安楽死」等の概念は、むしろ改めて関連づける試みをした方がよいのではないかと思っている(そうした試みの一つとして、神居文彰・田宮仁・長谷川匡俊・藤腹明子『臨終行儀――日本的ターミナル・ケアの原点――』北辰堂、1993参照)。
 「安らかな死」を願う言説が「安楽死」や「尊厳死」といった言葉でだけ語られると、そこでは「自己決定(本人の意思)こそが最も重要である」という前提が立っているために、死にまつわることがすべて自己決定できるかの如き幻想に包まれることになる。この間には、「終活」と称して、死後のことまですべて自分で決めておくことが疑いもなくよいことだという言説が、各種メディアを通じて垂れ流され、死後、自分の好きな花を飾ったり、好みの服を着せて棺桶に入れてもらったり、或いはエンディングノートにちょっとした思い出を記したりする程度のことで、あたかも「安らかな死」が得られるような言説が横行してきた。が、その実、これは「死の商品化」にしかつながっていないように思われるのである。
 「死」を「往生」という言葉で問題にするとき、人は「生き死に」がすべて自己決定できる(本人の意思次第で何とでもなる)という誤解から免れられるという意義があるのではないだろうか。例えば、親鸞の場合、極楽浄土に往生できるかどうかは「他力回向の信心」に依る(すべて阿弥陀仏にお任せする)以外にないということになるが、ここからは「自己決定万能」の考え方は出てこない。昨年亡くなった永六輔の『大往生』(岩波新書、1994年)も「安楽死、尊厳死、ホスピスの話題もこと欠かない」(同書「まえがき」)という状況になり始めた中で書かれたものであるが、当時この本がベストセラーになったということは、20数年前にはまだ「安楽死」等の時代の問題を「往生」の問題として考える傾向が、日本にはあったということであろう。それが、現在では、「往生」という貴重な文化的資源を捨て去って、すべて「自己決定」で問題が解決するかのように語られている。しかし、安心して任せる世界があって、人ははじめて救われるのではないだろうか。死に方や死後のことにまで「自我」を拡大することは(仏教ではこれを「霊魂」として否定し、「無我」を説いているのであるが)、心配(迷い)の種を増やすことでしかないのである。
 以上、「往生=死」について考えてきた。そして、改めて「よき死」を「大往生」として語る文化を取り戻すことが重要だと思うに至った。(次回は「立往生:往生=困」について考える。)


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