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出会い、こぼれ話 №40 [心の小径]

第39話 お礼肥

                                       教育者  毛涯章平

 所用で長野駅から列車に乗った時、発車間際に一人の婦人が外からはげしく窓をたたいた。何事かと思い急いで開けてやると、よほどあわてているらしく、窓わくをくぐつて顔をつっこんできて、通路をはさんで私の反対側の座席に向かって大声で話し始めた。
 「いい?枚本で降りたら、そこにそのまま立っているのよ」
 見ると四・五歳ぐらいの男の子が一人、こちらを向いてうなずいている。母親と、その子どもであることがすぐにわかった。
 わたしは、身をうしろにそらせて、話をしやすくしてやった。
 「降りたら動いちゃだめよ。おばあちゃんが迎えに来てくれるからね。じゃあね」
 甲高い声でこう言い終わると、発車のベルが鳴りだしたので、彼女はさがって手を振り始めた。
 わたしは、母親からも、チビもからもお互いがよく見えるように窓を開けたままにしておいた。
 やがて列車がスピードを増してきたので窓を閉めた。
 そうして、言いようのない味気なさが心に残った
 実は、初めから発車まで彼女は、わたしという一人の乗客の存在を、全く無視していたのである。
 -松本に着いたら、あの子をホームまで連れていってやるつもりでいたのに-

 そんなことがあってからある晩、村の有線放送を聞くともなしに聞いていると、
「今年も柿がたくさんとれました。雪の降る前に『お礼肥』を充分やってください」
と言っているのが耳に入ったりわたしは、このことばを聞いて言いしれぬ味わいと安らぎをおぼえた。
 収穫の後に『お礼肥』をやろうと言っているこの村から生座される果物は、それはもう、うまいに決まっていると思うのだった。

『章平先生の出会い、こぼれ話』 2015年豊丘村公民館会報


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