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多摩のむかし道と伝説の旅 №2 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

西多摩の将門伝説

                                              原田環爾
                                       
 日の出、羽村、青梅、奥多摩など西多摩を旅すると、平将門の伝説が数多く残されているのに驚かされる。伝説が生まれた背景と、実踏で出会った伝説を紹介する。
 平将門は桓武平氏の祖高望王の孫である。10世紀の初頭、京では藤原氏の専制で政治が乱れ、地方では国司が任期後も土着して勝手に荘園を拡大して律令制度は破綻、治安は乱れ『 凶猾、党をなし、群盗山に満つ 』という無法地帯になっていた。将門はそんな腐敗した中央政権に反抗して反乱を起こした坂東の英雄である。もとはと言えば父の死後、土地の相続を巡る叔父国香との私的な衝突に端を発したものであったが、次第に反国家権力の姿勢を鮮明にし、天慶2年(939)ついに常陸国府を襲撃、更に坂東八ヶ国の国府を次々と落とし、自らを新皇と称して独立王国を宣言し岩井(坂東市)に営所を築いた。驚いた朝廷は参議藤原忠文を征討大将軍として京より派遣するとともに、東国の諸豪族に将門討伐を命じた。下野の藤原秀郷(俵藤太)もそんな帝の命に応じた豪族の一人である。将門は次第に追い詰められ、天慶3年(940)平貞盛、藤原秀郷らとの戦いの最中、矢を射られて落命した。世に承平天慶の乱と呼ばれる。
 ところで将門が活躍した舞台は筑波山麓の下総や常陸であり、多摩に足を踏み入れたという歴史的事実はない。にもかかわらず何故か将門伝説は西多摩各地に数多く残されている。考えられる理由として次の三点があげられる。
(1)将門の反乱が重税に苦しむ東国の民衆に広く受け入れられた。
(2)将門討滅後、一族が山深い西多摩に隠れ住んだことが伝承を生む素地となった。
(3)青梅の戦国武将三田氏が自身の権威付けのため、自らの出自を将門の後胤と称し、将門伝説を創作して西多摩各地にばらまいた。
 三田氏が創作してばらまいたかどうかは不明であるが、多くの伝説が後世に残された背景には(1)(2)の理由の他に(3)の三田氏の影響があったことは否定できないだろう。

以下実踏で出会った西多摩の将門伝説を2つばかり紹介する。

日の出町大久野から青梅金剛寺へ抜ける伝承路に伝わる伝説
 天慶2年(939)も暮れようとする頃、平将門軍は官軍の藤原秀郷軍に追われ、相模原方面から大久野に入り勝峰山に立て籠もった。 秀郷軍3000に対し、将門軍はわずか400であった。年があけて天慶3年(940)、秀郷軍は勝峰山を攻めあがった。将門は3mもある金棒を振り回して奮戦した。勝峰山から4km離れた幸神の藤太橋で戦況を眺めていた

2伝説の古戦場勝峰山.jpg

秀郷は、敵陣がなかなか落ちないのに業を煮やしていた。その時、茜空に馬に跨った将門の姿が鮮やかに見えたので、持ち前の強弓で将門めがけて矢を放った。矢はぐんぐん伸びて将門の鎧をかすめて飛んでいった。矢が越えた沢を矢越沢、また矢は肝要の後ろの山を越したのでその山並みを通矢尾根と呼ぶようになった。将門は戦況我に利有らずと判断し、勝峰山を下り間坂( 将門坂)に入り間坂峠を越えて水口へ、更に梅ヶ谷峠を越えて青梅に入った。

2逃走路と伝える将門坂.jpg

そして金剛寺に立ち寄り、そこで手に持っていた梅の枝を地面に突き立て、「我が志成るものならば根付け」と唱えた。すると梅の枝は立派に根付き、やがて花が咲き、実を結ぶまでに育ったが、どうしたわけか梅の実はいつまでたっても青く、決して熟すことがなかった。このことから青梅という地名が生まれたと伝えられる。

2金剛寺の梅.jpg
2将門と秀郷の伝説を残す阿蘇神社.jpg

                                                                             ◆羽村の阿蘇神社から棚沢の将門っ原に至る伝説
 玉川上水の羽村堰から多摩川沿いに1kmも上流に向かえば阿蘇神社がある。阿蘇神社にはこんな伝説がある。将門には奥多摩の棚沢の将門っ原に館があり、愛妾の滝夜叉姫を住まわせていた。将門は折を見ては滝夜叉姫を訪ね、そ2将門と秀郷の伝説を残す阿蘇神社.jpg2阿蘇神社の椎の木.jpgの際は必ず羽村の阿蘇宮に立ち寄った。承平3年(933)には社殿も造営したという。ところが将門討滅後、将門の魂が雷神になって敵将を焼殺したとか、京に送られた将門の首が目を見開いて白光を発して空を飛んだといった奇怪な噂が相次いだ。秀郷は将門の怨霊を鎮めるため、天慶3年(940)阿蘇宮の社殿を造営し、社殿の傍らに椎の木を手植えしたという。その椎の木は本殿の左に立っている。なお棚沢の将門っ原とは、鳩ノ巣の手前にある多摩川に舌状に突き出た平坦地であるが、今は民家が建ち並んでいる。その北側の山中には将門の三男良門が建てたという将門神社がある。本殿の傍らには御幸姫観音の立像がある。棚沢では昔から御幸姫が将門の愛妾とされ、古くは将門っ原に祀られていたが、その後将門神社に移されたという。


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