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五悔思想の展開 №2  [心の小径]

五悔思想の展開

                                前佛教大学学長  福原隆善

  二

 五悔思想は唐代になって浄土教の大成者である善導(六一三-六八一)によって懺悔の具体的実践として重視されている。五悔は五部九巻といわれる著作の中で『往生礼讃』に説かれる。善導の著作は「懺悔」のことばで埋めつくされているといってよく、それは真摯な「願」によって形成されていると思われ、両者がからみあって善導浄土教の特色をなしている。善導における懺悔は、上中下三品の懺悔や廣略要の三懺悔など複雑な要素をもっている。それらを背景に構成されている懺悔法が五悔であって、五悔がみられるのは『往生礼讃』の中夜時のみである。しかし五悔ということばは使用されていない。懺悔・勧請・随喜・回向・発願の五法によって懺悔を説くのは智顗の五悔と同じであり、これを五悔と呼ぶことには支障はないであろう。ただ内容的には善導と智顗の五悔は相違がある。善導は五侮思想を構成するにあたって智顗に五悔思想があることはおそらく知っていたであろうが、しかし浄土教の立場から異なったた構成の仕かたをしており、、「五悔」ということについては善導が好んでよく用いる『観佛三昧海経』に依ったものではないかと考えられる。ただ五悔の説かれる『往生礼讃』の中夜時は、龍樹の『願往生礼讃偈』によっで構成されていることが明示されている。『願往生礼讃偈』は『十二礼』のことであるといわれる。碓かに『十二礼』に説かれるものと中夜時の偈文の中に一致するものがみられるので間違いはないであろう。ところが『十二礼』には五悔に相当するものは見られず、善導は五悔については別の資料によっていることが知られ、おそらく『観佛三昧海経』や智顗と同じく籠樹の『十住毘婆沙論』等に依って作成したものと思われる。
 善導における五悔思想が明確にみられるのは『往生礼讃』の中夜時のみであるが、他の五時の中にも五悔を背景にもって構成されているものがある。また『観念法門』には五悔思想の先駆的なものがみられる。『観念法門』は「依観経明観彿三昧法一」「依般舟経明念佛三昧法二」「依経明入道場念彿三昧法三」「依経明道場内懺悔発願法四」の四項目から成っている。その中の第四番目はまさに五悔の懺悔から発願に至る内容を示すものとみられ、『往生礼讃』で五悔思想を構成する意識のあったことが知られる。
 善導の五悔思想は、智顗が一心三諦の観門を開明する実践としているのに対して、阿弥陀佛に帰依するための実践として位置づけられている。まず懺悔については、無始よりこの身を受けて十悪を犯し、父母に孝養せず三宝を謗り、五逆罪を犯して無量の生死苦を受けている自己の姿をありのままにみつめて、自己の身口意の三業によって修する一切の罪を認めて披露懺悔し、自身を清浄ならしめよと願う。自己を反省してみると、常に罪を犯して生死の苦しみを受け、しかもそこから抜け出ることは容易でないことが知られてくる。このような懺悔心は真実の心がなければ出来ず、換言すればこれは三心の至誠心に相当するといってよい。善導は三心の至誠心は真実心であるといっている。このように善導における五悔は三心と密接に聞係しあっているものと思われ、以下この観点により論述をしてみたいと思う。懺悔の項において懺悔しおわったあと、阿弥陀佛に帰依することが述べられている。これはこのあとの四悔にも同様にみられることである。善導の場合、阿弥陀佛に対して懺悔をするのではなく、一応別のものに封して懺悔し終わったのちに阿弥陀佛に帰依する形をとっている。
 第二の勧請は、ただ単に自己の罪を懺悔することにとどまらず、生死の大苦海に没している衆生の住む三界を諸佛は空慧をもって照らし、衆生との積極的な関わりを示している諸佛の慈悲に覚め、諸佛を迎えていかに自己が罪悪の深い凡夫であるかを自覚し、諸佛の法輪が転じられで諸苦からの離脱を求めようとする実践である。この勧請の内容は三心の深心に相当する。言述するならば、深心は二種深信であり、その中の機の深信に相当すると考えられる。善導の深心釈によれば、機の深信は「自身はこれ具足煩悩の凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す」ることである。このような自己認識はちょうど佛を講ずることにおいてその教えに照らされる時、自己があらわになるという勧請に配当することができる。
 随喜は、無始以来の嫉妬心や貪瞋癡の煩悩により智慧慈善根を焚焼している自己を反省し、大精進随喜心をおこすものである。これは先きの勧請において佛を迎え、佛の数えにより諸苦からの離脱がなされていくのを受け、自己反省によってそのような自覚がなされて随喜心をおこすもので、これはまた二種深信の法の深信に配当するとみられる。法の深信は「弥陀の本弘誓願および名号を称すること下十声一声等に至り定んで往生することを得と信知す」ることである。これはちょうど阿弥陀佛の教えに遇い随喜の心を起こす五悔の中の随喜の内容に相当する。勧請においてみられた徹底した自己反省と、しかもその凡夫は阿弥陀佛によって救済されるという喜こびとは互いに密接に関係しあい、さらに深められていくものである。
 回向は、三界の内に流浪して苦界に沈没する自己を反省し、懺悔・勧請・随喜の実践を修したのであるから、次には信仰生活全体を浄土へ往生できるように回向することである。善導の場合は念佛生活に入ることを意味すると思われる。そして最後の発願は、阿弥陀佛の浄土に生じて阿弥陀佛に遇い、六神道を得て他の苦の衆生を救済する努力をする。五悔の中で前四悔は自己の完成をめざした上求菩提の実践であり、最後の発願は衆生とともに往生することを求めた下化衆生の実践であって自利利他円満の実践として完結するのである。そして回向と発願は三心の中の回向発願心に相当すると考えられる。善導の回向発願心釈は「所作の一切の善根悉く皆な回して往生を願ず」ることとなっていて、諸の善根を回向し浄土へ往生することを願う二面を備えているので、五悔の回向と発願は三心の回向発願心に相当するといってよい。
 このように善導は智顗にはみられない浄土教的色彩に色どられた五悔思想を展開し、三心の具体的懺悔行として五悔を位置づけることができる。さらに『往生礼讃』では五念門とも関係づけて考えることができ興味深いものがある。


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