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気ままにギャラリートーク~平櫛田中 №20 [文芸美術の森]

 《玉錦》

                          小平市平櫛田中彫刻美術館 
                                               学芸員 藤井 明

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                                                                                                                                                                                                                                         玉錦は、戦前に活躍した相撲取りです。小さな体ながらも猛稽古で第32代横綱となり、有名な双葉山の登場まで土俵をおおいに沸かせましたが、昭和13年に巡業中に腹痛を訴えて入院し、帰らぬ人となりました。
両国国技館のすぐ脇にある相撲博物館には、「国技」と名付けられた、平櫛田中による玉錦の木彫作品があります。本作はそれと同型のブロンズ作品です。
「大正八年五月二十五日」の銘をもつこの作品がどのような事情で作られたか分かりませんが、彼は同じ年に横綱に昇進しているので、関係者によってそれを記念して制作されたものと思われます。
 作品は玉錦の立ち会い前の姿で、肩から腕、お尻からふくらはぎにかけて、彼の厳しい稽古を物語るように引き締まった筋肉が付いています。
 この作品が作られた昭和初期の彫刻界では、その頃急速に国民の間に浸透していったスポーツを主題とする作品が増加しています。
あまり知られていませんが、国際的なスポーツの祭典であるオリンピックにはかつて芸術競技会というのがありました。第5回ストックホルム大会(1912年)から第14回ロンドン大会(昭和23年)までの計7回の大会で開催され、そのうち日本は第10回ロサンゼルス大会(昭和7年)と第11回ベルリン大会(昭和11年)に参加しています。
国内ではそれ以降、スポーツへの関心が高まっていくと同時に、彫刻界でもスポーツを主題とした作品が目立って増えていきました。スポーツが、肉体美や運動感を表現するための格好の題材であると考えられたからではないでしょうか。
 また、スポーツが盛んになると、成績優秀者に贈られるメダルやトロフィーがたくさん作られましたが、そうした制作に広く関わったのが彫刻家たちでした。このようにスポーツと彫刻は、意外にも親しい関係にあるのです。
しかし、田中にとってスポーツを主題とした作品は珍しく、この作品の他に制作されたのは、昭和4年の《アイスホッケー》があるくらいです。2020年には東京オリンピックが開催されるので、その時はまたスポーツに対する国民の関心も高まっていくことでしょう。田中がもう少しスポーツの彫刻を作っておいてくれていればと、美術館の学芸員として思わずにいられません。

* * * * * * * * * * * *                                                                       平櫛田中について 

平櫛田中は、明治5年、現在の岡山県井原市に生まれ、青年期に大阪の人形師・中谷省古のもとで彫刻修業をしたのち、上京して高村光雲の門下生となる。その後、美術界の指導者・岡倉天心や臨済宗の高僧・西山禾山の影響を受け、仏教説話や中国の故事などを題材にした精神性の強い作品を制作した。
大正期には、モデルを使用した塑造の研究に励み、その成果を代表作《転生》《烏有先生》など。昭和初期以降は、彩色の使用を試み、「伝統」と「近代」の間に表現の可能性を求め、昭和33年には国立劇場の《鏡獅子》を20年の歳月をかけて完成した。昭和37年には、彫刻界でのこうした功績が認められ、文化勲章を受章する。
昭和45年、長年住み暮した東京都台東区から小平市に転居し、亡くなるまでの約10年間を過ごした。昭和54年、107歳で没。


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