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気ままにギャラリートーク~平櫛田中 №19 [文芸美術の森]

 《烏有(うゆう)先生》

                         小平市平櫛田中彫刻美術館 
                                        学芸員 藤井 明

烏有先生.jpg
烏有先生(木彫) 東京国立博物館蔵
烏有先生(彩色).jpg

                      烏有先生(彩色) 小平市平櫛田中彫刻美術館蔵

  この作品は田畑辰三という、人力車夫をモデルにして作られています。江戸時代末に旗本の次男坊として生まれた田畑は、剣のかなりの遣い手で、徳川家最後の将軍となった徳川慶喜の近習(「きんじゅ」と読み、主君の側で奉仕する役目をもつ)をつとめるほどの腕前でした。しかし、学問がなかったため明治維新後は官途につけず、生活費をかせぐため本業の他に時々芸術家のモデルをして暮らしていました。
 田中は世俗を嫌って隠棲しているようにも見える田畑の人柄に魅力を感じて、彼を中国の文人風の姿で表しました。しかし、田畑本人は有名人ではなく普通の人だったので、作品が出来上がると、田中はこの作品にどのような題名を付けるべきか悩んでしまいました。そこで熟慮の末に「烏(いずく)烏んぞ有らんや」、つまり「なんでもない」という意味で題名を付けたということですが、この作品こそ、現在は東京国立博物館によって所蔵され、田中の代表作の一つに数えられている《烏有先生》(写真上)です。 この田畑という人物の面白いところは、その後も田中によって繰り返し制作され、姿と主題を変えて現れてくることです。
私の勤務先である小平市平櫛田中彫刻美術館が所蔵する《烏有先生》(写真下)は、像高1メートルをこえる東博像に較べるとずっと小さな作品で、東博像には無かった彩色が施されています。形姿も東博像と異なって頭に頭巾を被り、左手は巻物を掴んでいます。東博像が文人なら、こちらは学者といったところでしょうか。
また、小平市像と全く同じ形姿に作り、「雪舟」という題名を付けた作品もあります。ここでは田畑のイメージが、「画聖」と形容される室町時代の禅僧・水墨画家に生まれ変わっているのです。このように田畑という人物は、田中にインスピレーションを与えてくれる稀有な存在でした。
モデルといえば、明治、大正時代はあまり成り手がなく、作家がモデル探しに苦労したというエピソードがいくつも伝えられています。特に裸婦のモデルは、確保することが困難でした。そのため、いいモデルを見つけると作家同士で奪い合うことも珍しくありませんでした。また、モデルの中には無断で休んでしまう人もいたので、そのような場合はなだめすかしながらも続けてもらう必要がありました。当時の芸術家は、制作以前にこうした問題に対処しなければならなかったのです。それを思うと、田中は実によいモデルを見つけたものです。一連の《烏有先生》は、少し大げさにいえば作家とモデルの協同によって生まれた作品だったと言えるのではないでしょうか。

* * * * * * * * * * * *                                                                       平櫛田中について 

平櫛田中は、明治5年、現在の岡山県井原市に生まれ、青年期に大阪の人形師・中谷省古のもとで彫刻修業をしたのち、上京して高村光雲の門下生となる。その後、美術界の指導者・岡倉天心や臨済宗の高僧・西山禾山の影響を受け、仏教説話や中国の故事などを題材にした精神性の強い作品を制作した。
大正期には、モデルを使用した塑造の研究に励み、その成果を代表作《転生》《烏有先生》など。昭和初期以降は、彩色の使用を試み、「伝統」と「近代」の間に表現の可能性を求め、昭和33年には国立劇場の《鏡獅子》を20年の歳月をかけて完成した。昭和37年には、彫刻界でのこうした功績が認められ、文化勲章を受章する。
昭和45年、長年住み暮した東京都台東区から小平市に転居し、亡くなるまでの約10年間を過ごした。昭和54年、107歳で没。


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