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修誠の人・小山敬三 №40 [文芸美術の森]

「初夏の白鷺城」下図と本図(1974年 40号)

                        小諸市立小山敬三美術館館長  小林秀夫

小山敬三画伯は洋画家にはめずらしく、現場で直接油彩画を仕上げていくスタイルではなく、現場でスケッチをし、画室でじっくり下図をつくり、それをあらためて別のキャンバスに描いて仕上げていくという、日本画家のような制作過程をとっていた。
アトリエで描かれた画伯の下図は本画に近い大きさで制作されているが、両者を比べると微妙に異なる部分があり、文化勲章を受章した画家がどのように作品を創りあげていったかを探るヒントや秘密が詰まっている貴重なものとなっている。下図は、本制作の裏側に位置するため、一般的に美術館で展示されることはきわめて少ないと思われる。
どの作品についても、下図から本画を制作していく過程は、単に拡大して大きな作品にするのではなく、描きながらあらためて画面を作り上げていく、画家の創造的な創作の世界がみて取れる。

初夏の白鷺城下図.jpg
下図 
初夏の白鷺城.jpg
本図

「初夏の白鷺城」1974年 40号
「初夏の白鷺城」は晩年の作だが、今回の前の解体修理の前にも白鷺城を描いている。 このときは、姫路市長に頼んで天守閣を借り切ってスケッチをしたとの逸話が残っている。
描いた場所はほぼ特定できる。天守閣からの写真によって実際の光景と見比べると、画面の下の部分に敬三画伯独特のデフォルメがされていることがわかる。
下図には、拡大用につけた方眼と番号が残っている。
この下図をもとに構図ができ、さらに色彩豊かにしていった。下図の段階での着彩は、かなり限定した色数でイメージを組み立て、本画ではそれを基にしなが、創造的にふくらめていったようだ。

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【小山敬三画伯略歴】小山敬三画伯肖像コピー2.jpg
1897(明治30年)長野県小諸町(現在の小諸市)で醸造業(現在「信州味噌―山吹味噌―」)を営む23世小山久左衛門正友の三男として生まれた。上田中学校卒業後慶応大学予科に入学したものの、芸術家への思い絶ちがたく、反対する父を説得して川端学校に入学した。その後、父と親交があった島崎藤村の勧めもあって、8年間フランスに留学した。
フランスでは、アカデミー・コラロッシュでシャルルゲランに師事して、絵画の基礎を固めた。留学中サロン・ドートンヌに入選、のちには会員・審査員にもなった。また、フランス人マリー ルイズと結婚。
帰国後は茅ヶ崎にアトリエを建て、そこで多くの名作を描いた。1936年二科会を退会し安井曾太郎らと一水会を創立した。その後日展などで作品を発表。日展評議員、理事を歴任した。1960年には日本芸術院会員、1970年文化功労者。1971年小諸市名誉市民となった。1975年には小山敬三美術館を建設し、作品と共に小諸市に寄贈。同年、文化勲章受章、1976年には茅ヶ崎市名誉市民となった。1987年89歳で死去。
 代表作は「浅間山」「白鷺城」の連作。グランドプリンスホテル新高輪には画伯が85歳の時に描いた「紅浅間」(縦4メートル横12メートル)がある。

【小山敬三美術館】〒384-0804 長野県小諸市丁221

小山敬三美術館.jpg
設計は村野藤吾、この美術館の設計で毎日芸術賞を受けている。


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