SSブログ

シニア熱血宣言 №51 [雑木林の四季]

心の故郷、歌にあり

                                      映像作家  石神 淳

藁と農家DSC_0035 のコピー.jpg

                                                       干藁と農家

 

 今年は、「故郷演歌」が流行った年だった。叙情的な歌詞が空虚な心に響くのは、アベノミクスで景気が喧伝されても、にわかに受け入れ難い不信感がぬぐい去れないからではなかろうか。後期高齡者と団塊世代との隔絶感も露になりつつある。
 演歌のなかでも、故郷をテーマにした歌は、庶民に愛され続けてきた。明治時代の洋楽歌唱は、賛美歌のメロディーを手本に歌詞をあてた歌が多かった。しかし、明治の後期から大衆歌唱が流行るのには、そう時間がかからなかった。
 昨今でも、大正3年尋常小学校唱歌として唄われた、高野辰之作詩「故郷」は、そのメロディーが、ラジオやテレビから何らかの形で聴こえてこない日はない。故郷を唄った歌は、日本人の心の歌の原点と言ってもよいだろう。
 とくに故郷を唄った演歌は、明治時代の(ふるさと古謡)から民謡や唱歌へと、時代の変遷を経て編曲されながら歌い継がれてきた。
 私も、少年時代から78歳にいたるまで、いかほど、故郷をテーマにした、唱歌・童謡・民謡・演歌に力づけられながら生きてきたことか。
 
 故郷の我が家は、いまはもう無いが、心に抱く幻影と共に、故郷回帰へのトップページを彩ってくれる。 
 子供の頃の思い出だが、いつも想い出すのは、台風で風が吹きまくった深夜。雨音に混じり茅葺の家根に栗が転げ落ちる、カラコロ・・・ストンという音だ。いが栗が転がるのは、カサコソという鈍い音だが、栗の実が転げ落ちる音は、コロコロと弾んだ音がした。明日の朝は、栗拾いで忙しいだろう。爐端に立ちこめた、薄紫色の斜光が夢枕に浮かぶ。
 日本人の叙情性は、故郷の四季の情景に育まれてきた。故郷の思い出とは、他愛も無い追憶の連鎖だが、高齢の域に達すると、年を追うごとに馬鹿に現実味をおび、人恋しくなってくる。

水引集落の曲屋(1)DSC00542 のコピー.jpg
    南会津、水引集落の曲屋
 
 

 生まれ故郷ではないが、定年退職後、農村の情景にこよなく親しみを感じ、四季折々「賛Barbizon派」の撮影で訪れている。
 昨今では、限界集落と呼ばれる地域が増え続けているが、「限界集落」という言葉は好きになれない。ひと頃は、過疎地と姨捨山の如く呼ばれたが、過疎を作り出したのは、人間社会で、人情の希薄さを自業自得で作り出したが、自然には何の責任もない。
  最近では、写生マニア向けの「スケッチ街道」が農村各地に誕生しているが、ほんとうの自然回帰とは、人が暮す豊かな山野で、荒れ果てた耕地ではない。

      見果てぬ夢を追いながら
      田舎の駅の木の柵に
      もたれかかって汽車を待つ
      ひとり旅路は雨模様
 
            「ひとり旅」から(1973年作詩)

  八高線沿いにある故郷、単線のちいさな駅のホームに佇むと、山の向こうから、黒い煙が立ちのぼり真っ黒な蒸気機関車が左右に揺れながら近づいてくる。
 蒸気機関車は、いつまで待っても来ない。駅舎は変わらないが、一両編成のジーゼルが、けだるそうな音を響かせてホームに入ってくる。時代から取り残された感じは、あの時も今もかわらない。「年を重ねた木造の駅舎よ、今となってはもう変わることはない」語りかけても、嗚呼今年も虚しく過ぎ去って行く。
 来年は、どんな故郷演歌が誕生するだろうか。
 少年のような気持ちに立ち返り、新しい事に挑戦したいものだ。それが出来なければ、いよいよ終焉を迎えねばならない。             


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0