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じゃがいもころんだ №62 [文芸美術の森]

道路

                                      エッセイスト  中村一枝

 今、JR大森駅の駅前に降りると、目の前に「馬込文士村地図」の大きな看板につき当たる。初めて来た人がこれをみて、見当をつけて歩いてみようという気になったとしても、かなり大ざっぱで分かりにくい。たて看板を見て、なるほど大森という所はそういう由緒のある町であったのか、ちょっと行ってみるわ」という気分にはなるだろう。しかし、地図を頼りに歩いても馬込文士村の片鱗(へんりん)さえ見つけることがきず、大森を後にするはずである。もともと馬込文士村といった町などあるわけがない。大正末期から昭和始めにかけて多くの文人、画家といった人たちがこの土地の住み心地のよさに移り住んできたという、それだけのことだった。それが今日では馬込文士村といった町があたかも存在したように思われているのだからおかしい。
 現在、私の住む大森山王で、道路の標示や機械をめぐって、地域の人たちが何回も会合を重ねて協議している。その度に標識の場所や大きさをめぐって怒号が飛び交うこともあるほどみなさんは真剣なのだ。
 大森駅から環状七号線に向かってくねくねと続く細い道、かっては近くの人しかその存在を知らなかった道である。環状七号線から先は馬込と呼ばれる地域、いわゆるかって文士たちが多く住んでいた場所に通じている。
 そして、この道が今から百年くらい前、文士たちが夏には浴衣がけで、冬にはインパネスにシャッポ(帽子)を被り、何人か連れ立って、大声でしゃべり合いながら、大森駅に向かって歩いていた道である。竹や木を切り開き、空き地をならして作った、もちろん舗装などあるわけがない。雨が降れば裾をからげて泥まみれで歩いたはずである。それが今や、大森駅から環七に脱ける便利な抜け道として、地図に迄のっているらしい。
 元々がこの周辺の住人たちの生活道路で、買い物かご片手に電信柱でおしゃべりのおばさんもいれば、学校帰りの子供たちが遊び半分、歩いているのか遊んでいるのかわからぬくらいにぎやかに通り過ぎ、おぼつかない足どりの老人がよたよた歩いていても危険とは無縁の道路だったのだ。
 「この道、車多いですね」が、「危なくてこわいですね」になり、実際、接触事故や出会い頭の交通事故も起きるようになり、のどかだった道は変貌していった。
 地元自治会の有志が立ち上がり、区役所に陳情を重ね、二、三年前からグリーンベルト地帯を設けたり、車よけのポールをあちこちに設置したりして努力を重ねている。しかし、どんなにしても誰もが満足できるわけはない。もともと、車の通る道ではないのに、突然の交通量の増加で起きたことなのだ。この話、日本中至るところに起きている話に過ぎない。車に乗るのをやめて歩けばいいといって誰も賛成しない。百年近く前、馬込に住んでいた文士たちは往復五キロもかかる大森駅までの道をのどかな顔をして歩いていたのである。
 当時馬込に住んでいた私の父尾崎士郎の女房であった宇野千代さんは、夕飯どきになるといつも、馬込の谷から山合いの道を着物の袖の中に野菜や酒を抱えこみ走っていたそうである。夫よりよっぽど売れっ子の女流作家だった。その宇野千代さんの、おおらかでのどかな気風がぴったり合っていた馬込村である。
 道路はいつもいろんな思いをのせて変わらずに続いている。でもそこを通る人間のせわしなさ、我利我欲の強さだけが今浮き彫りになってみえる。


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