若山牧水と立川 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
立川の若山牧水
『知の木々社』編集部
JR立川駅の北口、ペデストリアンデッキの階段ををおりた所に、背の高い碑が建っています。デッキに隠れるように目立たず、バスターミナルの中にあるため、近づいて眺める人も殆どいませんが、若山牧水の歌碑です。碑には、
「旅にて詠める 牧水
立川の驛の古茶屋
さくら樹のもみぢのかげに
見送りし子よ」
と刻まれています。字は喜志子婦人の手によるものです。
明治39年(1906年)、若山牧水が早稲田大学の級友土岐善麿と奥多摩への小旅行に出た際に立川駅頭で歌を詠んだことを記念して、昭和25年(1950年)に有志たちによって建てられました。
近年の再開発で、すっかり都会になった立川駅ですが、明治30年代のスケッチを元に、昭和初期に描かれた「立川村12景」の水彩画に、駅前を描いた1枚があります。ちょうど、牧水がこの歌を詠んだ頃の立川です。茶屋の前にはサクラの木もありますね。
立川村12景 立川駅茶亭
開発の際、歌碑を移動させる話もあったようですが、駅前で詠んだことを尊重して、駅前広場におちついたそうです。
旅を愛した牧水の歌碑は北海道から九州鹿児島まで、全国に100基にもおよびます。その中で、立川駅前の碑は、東京にある数少ない歌碑のひとつで、まだ学生だった牧水の、初々しい作品といわれています。
歌の中で、さくらともみぢが同居していることで、季節はいつかとの論争もあったようですが、もみぢが紅葉したさくらの葉を指すということにおちつきました。
43歳で早世した牧水がその後、立川を訪れる事はありませんでしたが、戦後、長男で歌人の旅人が未亡人の喜志子さんとともに立川に移り住みました。旅人はこの時期、職業の建築家としての仕事を、いくつか多摩に残しています。市泉体育館前に建つ、立川に住んだ詩人、北川冬彦の詩碑(昭和55年)や、たましん御岳美術館(45年)などがそれです。
立川市は、根川緑道を中心に、歴史民族資料館から根川貝殻橋まで2、4キロメートルに「詩歌の道」を整備し、市にゆかりの深い作家の句碑や歌碑を建立しました。
13点の碑の中に、若山家の家族3人の歌を見つけることができます。
牧水と旅人は、多摩川を詠んだ歌が選ばれました。根川緑道は多摩川のすぐ傍にあるからです。
牧水の歌碑は霧の広場に、旅人のそれは菖蒲園の入り口にあります。
『多摩川の あさき流れに 石なげて あそべば濡るる わが袂かな』 牧水
『霧にこもれる 多摩川 いつか雨となり 芽ぶく楊も ぬれはじめたり』 旅人
そして、根川せせらぎ湧きだし口にあるのが、喜志子さんの歌です。
『ひとりゐは あさこそよけれ わか竹の 露ふりこぼす かぜにふかれて』 喜志子
喜志子さんは立川で亡くなりました。若き日の夫が訪れた地に未亡人になったから住むようになったことに、彼女はどんな縁((えにし)を感じていたのでしょうか。
ともあれ、余り知る人もいないようですが、立川は牧水と浅からぬ縁があったのです。
そんな目で立川を見れば、開発でエネルギッシュに動いている町とは違った立川が見えてきます。
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