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往復書簡・広島あれから68年 №33 [核無き世界をめざして]

広島あれから68年 33

                        エッセイスト  関千枝子・作家  中山士朗 

関千枝子から中山士朗さまへ

 大変遅くなってしまいました。懸案の広島での中学生向け、フィールドワーク無事すみましたが、それでかなり疲れ、帰京すると、この時期のことで、さまざま集会や、意見広告の後始末などあり、そこへ、パソコンのプリンターが壊れるという騒ぎがあり(結局買い換えましたが、このごろの機械、据え付けがかなり難しくて・・・・)、まあ、いろいろありましてすみません。
 さて、広島の報告をする前に、前の中山さんのお手紙の来栖琴子さんの話から。私、来栖さんととても親しくしていたのですが、数年前から年賀状も途絶えており、お年もお年ですしお元気かなと心配していました。それが、今年五月、「ベアテ・シロタ・ゴードンさんの志を受け継ぐ会」というのをやり、私も主催団体の世話人になっていたのですが、突然来栖さんが集会に来たがっているという連絡が入り、切符を送るということがありました。その当日、来栖さんは早くから会場に来られたのですが、まあ、お元気なこと。びっくりしてしまいました。その時、私は、例の意見広告「戦争を知る世代からの意思表明―日本国憲法を改悪する人に、私の一票を預けません」をお見せしたのですが、すぐその場で「これこそ今やるべきこと。私の名前がまだ役に立つなら」とすぐ第一次賛同者を引き受けてくださいました。ただ、肩書を私が「戦中からのアナウンサー」としたのですが、彼女は「戦中のアナウンサー」にしろ、といわれるのです。つまり、戦争中、軍の命令とはいえ、嘘ばかりの放送をした、それが慙愧に耐えないから、というのですが、私は、戦後の来栖さんの活躍、ことに中山さんの出演なさった「婦人ニュース」で、女性初のテレビ・ニュースキャスターとして、女性の歴史に、いや、放送史に残る活躍をされたのですから「戦中のアナウンサー」では文句が来ます、と、押し通したのですが。
 来栖さんに中山さんからの手紙見せましたが、何しろ彼女は、「婦人ニュース」を八年八か月もやっていらしたのですから、残念ながら、中山さんのことをシカとは覚えていないそうです。しかし、こんなに喜んでいただけたとしたら、本当にうれしい、キャスターとして、冥利に尽きるといっておられました。
彼女、九〇歳になるので、来年から高齢者の施設に入る、とてもいいところが見つかったから、ということですが、なんとその施設、阿蘇なのですよ。中山さんと同じ九州。何かご縁ですね。このごろ、自宅で家族に看取られての死が理想的とよく言われますが、来栖さんは、子どもたちも働き盛りであり、彼らもやりたい仕事がある。介護の面倒をかけたくないと言われます。実は私も同じ考えで、家族に負担をかけるより施設の方がいいと思います。
すみません。肝心の広島の話、後になってしまいました。
六日の学校の慰霊祭、同窓の人たちの参加の少ないのにびっくりしました。高齢化現象激しいですね。でも、今まで来なかった新しい方が見えたり(当時の先生の子どもさんとか)、驚くこともありましたがこの話はまた、ゆっくりいたします。
この夜は、楠忠之さんという方にお会いすることになっていたのですが、楠さんと濵田平太郎さんと親しいということで、思いがけず、濵田さんの行きつけの魚のおいしい店で、3人で歓談、濵田さんに、ごちそうになってしまいました。濵田さんとは手紙でずいぶんやりとりしましたが初対面です。楠さんとは手紙等でなんだかだと連絡はついていましたが、一番よくお会いしたのは、私がまだ大学生、楠さんも文理大の学生の頃です。六〇年以上前の頃です。楠さんも九〇歳ですが、お元気で、自転車に乗ってこられたのには驚きました。
濵田さんには例の意見広告のお願いをお送りしなかったのに、名前が入っているのに驚きました。何処から回ったのかしら、と思っていましたら、私の国泰寺高校時代の友人から回っていたのですって。この友人、市立高女から国泰寺高校に来た方ですが、在学中も親しかったのですが、卒業後も休みで広島の帰るとよく遊びました。彼女は卒業後学校の事務職員を長くやっていましたが、濵田さんと二校で一緒で、ハマヘイと呼ぶ間柄ですって。この友も骨折し、夫さんも病気で歩けるような状態でなく、一時とても心配したのですが、回復し元気になりました。今回はからずも会い、あまりお元気なのでびっくりしました。今回、意見広告を頼みましたら、これはやらなければと大いに頑張ってくださり、ハマヘイさんにまで、「お願い状」を送って下さったのです。「世の中狭いのう」と、ハマヘイさんは言っておられました。
翌七日、「ヒロシマの少年少女たち(疎開地作業で死んだ子供たち)の慰霊碑を辿るフィールドワーク」の日です。中学生対象ということですが、中学生は七人(全部一年生)、大人の申しこみが多く、こちらは何人か断ったそうです。二〇数人で、炎天下を歩きました、素晴らしい資料を、元高校教師(広島修学旅行で広島にのめり込み、被爆者よりも詳しい)の竹内先生(東京都立川市在住}がつくってくださいました(中山さんのことも紹介してあります)。回るところは平和記念公園周辺と雑魚場(一中、山中・二県女)、ついでに、さくら隊も見せましたが、何しろ暑い。主催した平和資料館の方が心配してくださるのですが、私はひどく元気で、亡くなった友たちが見ているような気がして、若い人が驚くほど早足で歩きました。一中のところでは、証言はいろいろありますが、生き残りの文章として片岡さんの文章を少し読み、あの「LOVE」のポスター(もちろん小さいものですが)を見せました。自分たちと同じ年の中一の子どもがたくさん死んだということで、中学生たちも粛然としていました。
大人たちも(今広島の人も少年少女たちの疎開地作業のことをあまり知りません)、かなり興奮して、来年もやろうと言います。「生きていたら必ず」と約束し、「でも暑いですね」と言ったら皆に「あなたは、原爆の時、この暑さの中、しかも火の舞う中を、子どもたちは、はだしでに何キロも歩いて逃げたのだ、その苦しさを思いなさい、と言われたではありませんか」、と叱られ、そうでしたと謝りました。来年は作業地全部、土橋や、鶴見橋などに行けないかしら(バスを利用になるかもしれませんが)と考えています、

 

中山士朗から関千枝子さまへ

 来栖琴子さんのご消息を知り、大変嬉しく思いました。以前から、関さんとご親交があったとは、知りませんでした。前から言っていますよう、往復書簡を始めてからというものは、次々にご縁があってつながり、私たちに新しい資料をもたらし、内容が深まってきたように思います。原爆の実相を語るには、出来るだけ多くの人からの資料や証言を積み重ねる必要があります。
このたび関さんからお聞きした来栖さんのお話の中にも、女性史を凝縮したものを感じ取ることができました。そして来栖さんの毅然とした人生に触れ、しかもその人に、かつてお会いする機会があったのは、無上の喜びでもあり、残り少ない私の人生ですが、書く上での励みともなります。家族に介護の面倒を書けないために、来年から阿蘇にある高齢者の施設に入られるそうですが、来栖さんらしい潔さを心にとめました。
広島から帰られて直ぐのお手紙を読みながら、ひとりでにあの日の、朝から猛暑だった記憶が強烈によみがえってきました。
その炎天下、八月六日には母校の慰霊祭に出席。翌七日には中学生を対象にした、疎開地作業で死んだ子どもたちの慰霊碑をたどる<フィールドワーク>で、平和公園周辺、雑魚場町(一中、山中、二県女)のほかに移動演劇さくら隊の殉難の碑を回られたそうですが、その熱意と行動力には頭が下がります。
そしてその間には、楠忠之さん、濵田平太郎さんと歓談されたとのことですが、その人たちも、関さんと私にとってそれぞれ縁のある人で、往復書簡がはじまってからのことでした。
三人がお会いになられた様子を手紙で読んだ後で、関さんにしても、濵田平太郎さん委しても、二人は行かされるべくして、活かされている人だと思いました。
「何しろ暑い。主催した平和資料館の方が心配してくださるのですが、私はひどく元気で、亡くなった友たちが見ているような気がして、若い人が驚くほど足早で歩きました」
関さんの言葉です。
「死んではおられん」
これは、濵田平太郎さんが常々口にする言葉ですが、亡くなった学友の無念の声を聞き、語り継いでおかなければとの思いからです。
このたびのフィールドワークでは、さくら隊の殉難の碑にも行かれたことを知りましたが、六八年目の原爆忌にはさまざまな新しい埋もれた事実が掘り起こされて、歳月の移ろいを感じますが、同時に戸惑いのような、誰に向けてその怒りを向けて行けばよいのかわかりません。これが戦争のもたらす恐ろしさなのでしょう。
関さんが広島に発たれる前の、八月四日の朝日新聞に、世界ではじめての「原子爆弾症」第一号として診断された、さくら隊の女優・仲みどりさんのカルテの一部と診療記録が発見されたことが大きく報道されていました。仲さんを診たのは、放射線医学に詳しい東大の都築正男教授(故人)でした。
仲さんは広島で被爆後、東京の実家に戻り、八月一六日に東京帝国大学付属病院に入院、同月二四日に亡くなるのですが、その経過記録を読んでおりますと、私は広島市大手町八丁目の文理科大学・興南寮で被爆し、東京に引き揚げる途中、八月三十日に京都帝国大学附属病院の入院し、九月三日に死亡した南方特別留学生サイド・オマールのカルテを思わずにはいられませんでした。二人のカルテには、急性原爆症に共通の症状名が書き込まれていたからです。ただちがうのは、オマールの九月三日のカルテには、自身の血液で輸血し、治療に当たった主治医の手で記された「午後一一時五七分/彼は天国に行った」の文字で締めくくられていることでした。 
さくら隊に関しては、六八回目の原爆忌はさまざまなことを思い出させます。何かのことで濵田平太郎さんと昭和一八年に制作された映画「無法松の一生」の未亡人が誰だったかの話になり、後で濵田平太郎さんが調べてくれて、広島で被爆したさくら隊の女優・園井慶子さんだとわかりました。この「無法松の一生」は、戦後、三度もリメークされていて、そのつど女優さんが変わっています。話がそれてしまいましたが、濵田平太郎さんはその後で、
「驚いたことには,園井恵子さんの誕生日は八月六日になっている。したがって生きていれば、今年の原爆忌は満一〇〇歳ということになるではないか」
と言いました。
園井恵子さんは避難先の神戸の知人宅で一九四五年八月二一日に亡くなりました。享年三二歳ですから、六八という数字を加えれば、一〇〇歳になるのです。
星のめぐり合わせというには、あまりにも悲しすぎる生涯でした。


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あずま

来栖琴子さんの記事を探していてこちらに行き当たりました。

来栖さんの書かれた自費出版の本を求めたいのですが、

「くもりなき大和心の―2・26事件、その時旧・満州で」という本ですが、

連絡先がわかりません。

どうしたらよろしいのか、ご指南頂けませんか、

よろしくお願いします。
by あずま (2013-09-25 02:45) 

chinokigi

あずまさんへ

来栖さんには連絡がつきましたか。
もしまだでしたら、『知の木々舎』のメールにご連絡ください。

chinokigi@kg7.so-net.ne.jp


by chinokigi (2013-10-03 08:27) 

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