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京都環境学 №4 [雑木林の四季]

序章 早稲田の杜から京都へ-京都概説 2

                 早稲田環境塾講師・国際仏教婦人会役員  丸山弘子

神仏に祝福された土地、平安京

①四神相応之地(ししんそうおうのち))
 人相、手相と同じように、土地にも地相があります、桓武天皇は平安遷都にあたり、初代造営大夫の藤原小黒麻呂(ふじわらのおぐろまろ)に、中国の風水思想に基づいて「四神相応之地」であるかどうか地相調査に行かせています。
 「四神相応」とは、北に「玄武」、南に「朱雀」、東に「青竜」、西に「白虎」の神獣が配され四方を守護します。その四神には、それぞれ地形状のシンボルとなるものがあり、北の「玄武」は山、南の「朱雀」は池、東の「青竜」は川、西の「白虎」は大道とされ、そのように配された地相を最も尊いとするものです。平安京の場合、北は船岡山、南は巨椋池(おぐらいけ)(一九四二年干拓)、東は鴨川、西は山陰道とまさに「四神相応」の思想に適った地相でした。(12)
 桓武天皇は七九四(延暦十三)年十一月八目に次のような詔を下しました。

 この国、山河襟帯、自然に城を作(な)す。この形勝により新号を制すべし。よろしく山背国を改め山城国となすべし。また子束の民、謳歌の輩、異口同辞し、平安京と号す。
(『日本紀略』)

 「山河襟帯」とは山が襟のように囲んでそびえ、河が帯のようにめぐって流れ、自然の要害をなしていることです。現在でも、青蓮院門跡の飛び地境内で、東山三十六峰のひとつ華頂山山頂にある将軍塚大口堂に上れば市街が一望でき、この自然環境が実感できます。和気清麻呂が狩りにことよせて桓武天皇をこの山上にお誘いし、都の場所にふさわしい旨を進言したと言われています。京都盆地は三方が山に囲まれ、帯のように河も流れて自然に城のような地形をしているので、「山背国」の名称は「山城国」に改称され、「平安京」という雅名が新しい都につけられました。

②「洛」、一文字が京都を表す
 申し分のない土地に、平安京は唐代の長安城をモデルに計画的に造られました。自責及び諸官庁からなる大内裏(だいだいり)が都の北部にあり、長安城と同様に北闕(ほっけつ)型都市と言われます。この北闕型の都は均整のとれた二つの「京」、つまり、「左京」と「右京」からなり、この左右両京を画するのが南北に通貫する幅員約八五メートルの朱雀大路です。左右両京は、それぞれ「東京(ひがしのきょう)」、「西京(にしのきょう)」と称される一方、東京は「洛陽城」、西京は「長安城」とも呼ばれていました。(13)そこに中国の条坊制に倣って碁盤の目のようなグリッド構造の都市区画が建設されました。
 ところで、織田信長が上杉謙信に狩野永徳作の「洛中洛外図屏風」(上杉本)を贈りましたが、「洛中洛外」、「上洛」、「京洛」、「洛北」など、「洛」一文字で京都を表すことをご存じですか。それは上記の「洛陽城」に由来します。均整のとれた「左京」、「右京」でしたが、「右京」は湿地帯で住み難く衰退が著しくなりました。一方、「左京」である「洛陽城」は人家の移動により、大きく膨らんできました。左京域は、北上を始め、東は鴨川を越える勢いとなり、都の中心が東にずれて来たのです。(14)その結果、「洛陽城」の「洛」が京都の代名詞となりました。
 左京域に都の中心がシフトしたことにより、平安京の中心線であった朱雀大路は事実上その役目を終えました。その南端に平安京の玄関として築かれた「羅城門」は、芥川龍之介の『羅生門』に描かれたような有様となり、再建を果たせずその石碑が残るばかりです。(15)「羅城門」の東に配された東寺(教王護国寺)のみが創建当時の位置境域に変ることなく留まり、平安京造営時の遺構として現在に至っています。

③「天子南面」の思想からの方向・方角
 では、京都の地図をご覧下さい。向かって右側に「左京区」、左側に「右京区」と記してあります。なぜ、右側である東が「左京区」なのでしょうか。
 中国では天子は北辰(北極星)にたとえられました。その思想が日本にも入ってきて、天皇の御座所は必ず北辰に背を向けるように南に向かって建てられました。中国に倣い、平安京においても「天子南面」の思想の下、天皇からの方向が基準となったのです。南に向かって座する天皇の左が東になり、右が西ですから、向かって右側が「左京区」、左側が「右京区」となります。
 京都御所紫岳殿前にある有名な「左近の桜」と「右近の橘」も、天皇からの方向が基準ですので、「左近の桜」は向かって右側に、「右近の橘」 は向かって左側にあります。
 「左大臣」と「右大臣」のランクといえば、太陽が昇る方角である東、つまり天皇の左側を「上」と見なしますので、「左大臣」のランクが上となります。雛人形も京雛と関東雛では、お内裏様の位置が違います。京雛ではお内裏様は上座である向かって右側に、お雛様は左側に飾られます。
 院政を行う上皇を警護した武士集団を「北面の武士」と言いますが、これも「天子南面」の思想に関係しています。上皇は南に座して政務を執られますので、南面する上皇の背後を警護する武士は北面します。そこで「北面の武士」という言葉が生まれました。(16)
 京都の住所表記でも、内裏が北の方角にあったことから北に行くことを、「上がる」、南に行くことを「下がる」と言います。江戸中期(「七三六年)刊行の雑俳集『口よせ草』にも、「九重(都の意味)は上がる下がるでむずかしい」という句が見られ、江戸の庶民にはややこしい表現だったでしょう。(17)

(12)『第一回京都検定 問題と解説』京都新聞出版センター、二〇〇六年、九頁。
(13)京都商工会議所『京都・観光文化検定試験』淡交社、 二〇〇七年、一二一頁。
(14)同上書、二三頁。
  慶滋保胤(よししけのやすたね)は右京の衰退の著しい様を『池亭記』に著 した。
(15)芥川龍之介『羅生門・鼻』新潮文庫、二〇〇六年、八頁。
 「何故かと云うと、この二二年、京都には、地震とか辻風とか火事とか飢饉とか云う災がつづいて起った。そこで洛中のさびれ方は一通りではない。旧記によると、仏像や仏具を打砕いて、その丹がついたり、金銀の箔がついたりした木を、路ばたにつみ重ねて、薪の料に売っていたと云う事である。洛中がその始末であるから、羅生門の修理などは、元より誰も捨てて顧る者がなかった。するとその荒れ果てたのをよい事にして、狐狸が棲む。盗入が棲む。
 『細生門』の出典:『今昔物語』巻二十九「羅城門登上層見死人盗人語第十八」を主とし、同巻三十一「太刀帯陣売魚嫗語三十一」を部分的に挿入。
(16)『第二亘只都検定問題と解説』京都新聞出版センター、二〇〇八年、二一一頁。
(17)前掲書、京都商工会議所『京都・観光文化検定試験』二五二頁。

『京都環境学 宗教生とエコロジー』藤原書店


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つちかべ

安土桃山末期、江戸初めの1604年に、ポルトガル人のジョアン・ロドリゲスが、日本に布教に来て30年ほど滞在し、作ったのが「日本大文典」という印刷書籍です。400年前の広辞苑ほどもあるような大部で驚きます、秀吉の知遇、さらに家康の外交顧問もしていました。当時、スペイン国王からはメキシコに帰る難破船救助のお礼に、「家康公の時計」をもらっています。古代から伝えられてきた日本の歴史について知ることができる タイムカプセル でしょうか。戦国時代直後まで伝えられてきた古代史で、倭国年号が記載され、続いて慶雲以後の大倭年号が続きます。日本大文典の倭国年号の存在は、ウィキなどにも記載されていません、「日本大文典」の実物を手にとって見てください、感動すること間違いありません。    宜しくお願いします。

by つちかべ (2014-01-06 16:26) 

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