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バスク物語 №3 [雑木林の四季]

Ⅱ バスクの人々
●バスクでの第一歩-アスビアスさんのはからい

                               文筆家・翻訳家  狩野美智子

 私がバスクで初めて泊まることになったオスタル・イバラは、アスピアスさんがパリの亡命政府を閉鎖し、ビルバオに戻ってから最初に住んだ宿でした。なぜここに住んだのかというと、この建物の一階の部分にある「バスク語アカデミ-」に、パリから帰国した日に用事で立ち寄り、「とりあえず」というつもりで階段を二階分上り、オスタル・イバラの呼び鈴を押したそうでした。それから二年間、彼はここに居をかまえました。実はビルバオには、母上から遺贈された家があるのですが、アスピアスさんの長い長い不在の間住んでいた人が、なかなか出ていってくれなかったのです。
 一九八三年、バスクでの私の第一日、ビルバオ駅前で出迎えて下さったアスピアスさんは、彼の友人の息子で失業中のイニャキという青年に、車の手配を頼んで下さっていました。ところがイニャキの車は現れません。オスタル・イバラに着いてからも、アスピアスさんは何度もイニャキに連絡をとろうと電話をかけに立ちました。
 宿のマイテがとりなして、「ビルバオは普通の時ではないのだから、時間に間に合わなくてもしょうがないでしょう」と言うのですけれど、「そういう時だからこそ、早く出るべきなんだ」と、二人で口論が始ってしまったのです。
 ビルバオは大洪水の直後、オスタル・イバラのあるカスコ・ビエホ(旧市街)は、まだ水がすっかりは引いていず、たしかに普通の時ではなくて、マイテの言う通りなのです。でもアスピアスさんは、日本からはるばると来るミチコが不自由をしないようにくれぐれも念を押しておいたのにと、残念でならなかったようでした。長い間バスク大統領の秘書だっただけに、彼はとても気持ちの行き届いた凡帳面な人なのです。
 遅れてノコノコと、オスタル・イバラのサロンに入ってきたイニャキは、アスピアスさんからさんざんしかられても、にこにこと屈託なく、この人はアスピアスさんとは反対に、気のいい、のんきな人でした。
 彼はここ何カ月か失業をしていて、私のために運転をしてくれれば、いくらかのアルバイトにもなるだろうと、アスピアスさんが考えて下さっていたのです。私にとっても何よりのことで、殊にこの時は洪水のために、ほとんどの交通機関が動いていなかったので、彼の車がなかったら、どこにも行けないところでした。そしてその後も、バスクに行く度に、交通不便でなかなか行けないようなところには、彼に頼んで連れていってもらっています。
 実はこの時、イニャキの家では赤ちゃんが生れたばかり。イラチェという「泣き虫の女の子」で、「昨夜はイラチェが泣くから一晩中眠れなかった」ので、つい寝すごしてしまったそうです。このあと奥さんのトニ、長男のイニャキート(父と同じイニャキという名なので、子供には縮小形で呼んで区別します)と四人家族みんなと親しくなり、しかも子供たちが行く度に大きくなっていくのが、大きな楽しみになりました。
 さて、アスピアスさんは、もうこのオスタルには住んでいません。けれども出る時に、オスタル・イバラの大長老ドニャ・マリアから、「あなたは家族みたいなものだから」と、入口の鍵は返さなくてもいいと言われたそうで、今でも彼はこの家に出入り自由なのです。ビルバオにいる間、彼はよく来てくれました。外出から帰ると、「今さっきまでホシェマリが待っていたけど」とマイテが言うことが何回かありました。ホセ・マリアをバスクの人はよく「ホシエマリ」と言うのです。
 彼は私に必要なことをして下さり、私が一人歩きできるようにはからって下さったのだと、今になってみるとはっきりわかります。オスタル・イバラとイニャキを紹介して下さったのがその第一でした。
 観光案内所、電話局、割引で本が買える出版社、バスクの本が揃っている本屋さん、バンプローナやビットリアに行くバスのターミナル、安いレストラン、そしてビルバオのグラン・ビアにあるバスク国民党(PNV)本部、ビットリアのバスク自治政府などなど。次の滞在の時がちょうどPNV創立九十周年に当り、私はアスピアスさんとレセプションに出席しました。いうまでもなく、彼のとりはからいのおかげでした。

『バスク物語』彩流社


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