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往復書簡・広島あれから67年 №13 [核無き世界をめざして]

広島あれから67年 13

                       エッセイスト  関千枝子・作家  中山士朗 

関千枝子から中山士朗さんへ 
 お手紙で、ジョン・W・トリート氏の「引用」、何とも違和感を持ってみました。これは「被爆時にいた場所によっての認識の差」という問題ではなくて、この方の「考え方」の問題だと思いますが。被爆時にいた場所、などということになりますと、被爆体験のない人は、原爆のことに付いて、何もわからないということになってしまいますが、私は被爆体験のない方で被爆者よりもこの問題熱心で、実相を後世に語り継ごうと、献身的に活動しておられる方を何人も知っております。
 先日の「舞踏」の和泉舞さんもその一人ですが、その後のやり取りで、和泉さんは、この「往復書簡」という形に興味をもたれたようで、「原爆の図」の丸木美術館の学芸員の方と往復書簡を始められました。私たちの書簡がきっかけになって、新しい往復書簡が生まれるのも素晴らしいことではないかと思います。
 さて、先日、モスク(イスラム教の寺院)で行われた「原爆パネル展」という珍しい原爆展に行ってまいりました。モスクは、小田急線・代々木上原にあり、昔は小田急の電車の中からもよく見えました。私、大学に入って最初の下宿が、東北沢で、このすぐ近所でしたので、遠くから見るだけではありますが、よく知っています。中山さんの下宿は離れておりますが、もしかしたら御存知ではないですか?
 さて、この原爆展に行くきっかけになりましたのは、被爆者でなくて被爆者以上に原爆のことに熱心な、竹内良男さんという元高校教師の方から聞いたからです。竹内さんは広島修学旅行に取り組んだことから原爆のことに熱心になり、私とは二七年のつきあい。広島の被爆者、語り部たちとのお付き合いは深く、先日の手紙で書きました似島の旅もこの方の案内、企画でした。
 モスクの原爆展とは珍しいと思ったのですが、このモスク(正式には東京ジャーミーというらしい)、ロシア出身のタタール人たちのために設立したようですが、今はトルコ大使館の所属だそうです。展示には被爆者の人がかかわっているようですが、資料にも主催団体など書いてないのでよくわかりませんが、一昨年に次いで2回目だとのこと。トルコ大使もとても熱心で、一昨年は見学に来られてお話もされたそうです。イスラム圏というのは、被爆者の証言の世界への旅でもあまり聞いたこともありませんし、とてもいいことだと思いました。竹内先生もたまたま話を聞き手伝うことになったそうで、展示のある二日間,詰めきりで奮闘されていました。
 私の行った二十三日は朝から雨が激しく、そのためもあり、(宣伝不足もあると思いますが)決して人は多くなかったのですが、DVD『はだしのゲンが伝えたいこと』の上映や中村里美さんの歌などもあり、なかなかいい会でした。
 この日、驚いたのは、会で一人のバングラディシュの青年が紹介されたことでした。彼は、被爆者の証言をベンガル語に翻訳したいと思って、日々、取り組んでいるというのです。ただ、彼は、日本に来て結構長いようですが、あまり日本語はうまくないようで、{少なくとも会話はとても下手)、大変だなと思います。被爆者の証言の翻訳、難しいと言いますから。でも、こんなことに取り組むということ、素晴らしいというか、ありがたいというか。なぜ彼が、こんなことに取り組もうと思ったかわかりません。聞いても彼の日本語会話では理解できないですから。でも、原爆には、この若い異国の青年を取り込むすごい力があるとしか思えません。きっと彼は、原爆の災害の大きさ、悲しみ、痛み、怒りをわかってくれている、共感してくれているのではないかと思いました。

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                                原爆の図「原子野」


中山士朗から関千枝子さまへ
 引き続き私なりの原子野についての思いを語らせていただきたいと思います。というのも、たまたま関さんから、丸木位里、俊夫妻の『原爆の図』から「原子野」をテーマに和泉舞さんが舞踏化されるというお話を聞いてから後、私の頭からそのことが離れませんでした。
 前回、原子野の範囲について私なりの考えを述べましたが、やはり、はっきりとしません。国は二〇〇八年四月と〇九年六月の原爆症認定基準改定で、爆心地から三・五キロ以内で直接被爆したか、原爆投下後約一〇〇時間以内に爆心地から二キロに入った人を対象に地域を分かちました。
 そして、最近では、「黒い雨」地域の拡大についても、広島市が拡大を国に求めましたが、六〇年前の記憶に頼るなど正確性が明らかにできなかったという理由で、認められませんでした。「黒い雨」による援護地域は、七六年に指定された東西一一キロ、南北一九キロに指定されたままです。
 したがって、原子野とはどの範囲を示すのかよく分かりませんが、国の指定する原子野と被爆者の内に死ぬまで広がっている原子野とは、著しくちがうようです。
 したがって、関さんが、ジョン・W・トリート氏の引用に違和感を持たれたのは当然で、被爆体験のない方で被爆者よりもこの問題に熱心で、実相を後世に語り継ごうと献身的に活動されている方は、被爆者の内に死ぬまで広がっている原子野を、作品を媒体にして追体験し、認識された結果だろうと思います。
 かつて原爆文学を広く世間に紹介した長岡弘芳氏の生き方が、そうではなかったかと思います。長岡氏が原爆にかかわりを持つようになったきっかけは,戦後まもなく広島大学に受験に来て、昼食時に握り飯を食べている時だった、と私に語ってくれたことがありました。
 しかし、一九三二年に東京で生まれた彼は、東京都立大学卒業後、出版社に勤務。後に『原爆文献を読む』『原爆文学史』『原爆民衆史』を著わし、年どしに語り継ぐ原爆文献について触れています。その中で、丸木位里・俊夫妻の『原爆の図』について、作画から展示、美術館建設まで、一切が手づくりの運動であったと記しています。
 私が『死の影』を出版した時、中国新聞の大牟田 稔氏を通じて、長岡氏を知ることになりましたが、彼は私の作品を熱心に読んでくれ、いつも細かい字でびっしりと感想を書き送ってくれました。『原爆文献を読む』(一九八二年・三一書房刊)の中でも私の作品に触れてくれていますが、このたび読み返していましたら、冒頭の「理想の火を」という章で、埼玉県の東松山市にある「原爆の図・丸木美術館」について詳しく書いてある個所が目にとまり、不思議な時間の訪れを覚えました。
 丸木位里さんは一九〇一年生まれで、日本画家、奥さんの俊さんは、一九一二年生まれの洋画家で、長岡氏は合わせて百五十歳のご夫婦と言い、見事な生涯と感嘆しています。そして、お二人がともに入市被爆者として、被爆者健康手帳を持っておられたことを知りました。位里さんは、父,おじ・姪と肉親三人を失っていました。
 この『原爆の図』のデッサンが始まったのが、一九四八年で、位里さんが四〇代、俊さんが三〇代の壮年期で、第一部の完成が五〇年二月でした。後には、『原爆の図・第一部幽霊』とされますが、以前にプランゲ文庫の所で書きましたように、占領軍の報道管制によって、原爆という字を避け、「八月六日」にしたと説明されていました。原爆のことに触れると沖縄にやられて懲役労働をさせられるというまことしやかな噂が流れていた、と長岡氏は付け加えています。
 長岡氏は一九八二年当時、財団法人丸木美術館の理事を務めていましたが、一九八九年八月一四日に自死したことを文芸家協会の会報で知り驚きました。その理由はわかりませんが、残念です。
 このたびの一〇月一日付の関さんのお手紙によって、舞踏家の和泉舞さんが丸木美術館の学芸員の方と往復書簡を始められることを知り、来年の『原子野』の公演の深まりが今から期待されます。
 その時ふと思い出したのは、一九五〇年一二月一一日に早稲田大学で「創立六〇年記念 文学部大会」が大隈講堂で開催された時、色々なパンフレットが配布されましたが、その中に赤松俊子(現在の丸木俊)さんの、モスクワの星空の下に聳える教会の塔を描いた表紙絵のものがありました。その美しい風景描写が、今でも記憶の底にはっきりと残っています。その中に、ロシア民謡のスタンダードナンバーの歌詞が印刷されていました。そしてその時、はじめて中央合唱団の指導者・関鑑子さんの名前を知りました。そのころ、学内では盛んにロシア民謡がうたわれましたが、露文科の生徒になったばかりの私たちは、いつしか「ボルガの舟歌」や「ともしび」「バイカル湖のほとり」などをロシア語で歌うようになりましたが、後年になって考えてみますと、合唱団のオルグ活動とつながりがあったように思えます。私はそのパンフレットを下宿の机の上にしばらく飾っていました。
 文学部大会の第二部は、舞踏、邦正美舞踏団、劇「夕鶴」ぶどうの会、音楽,朝日管弦楽団、指揮近衛秀麿となっていました。六八年経った今になって、原子野に連なる記憶が、一つの輪になって鮮明に蘇ることに驚きます。


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