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往復書簡・広島あれから67年 №12 [核無き世界をめざして]

広島あれから67年 12

                        エッセイスト  関千枝子・作家 中山士朗 

関千枝子から中山士朗さまへ

 手紙、遅くなりましてすみません。このところ、いろいろ仕事が多くて失礼しました。中山さんの原子野についての記憶、もっと伺いたいところですが、私の今回の手紙は、前の手紙で不十分な書き方をしたところ、少し間違えていたことの訂正などを送らせていただきます。もう一つ、前の便で書きました舞踏家の和泉舞さんのように、被爆者でないのに原爆のこと、懸命に伝える活動をしている方が多くあり、私、感銘を受けております。そのこともおいおい書いていきたいのですが、今回は、ともかく訂正、加筆から。
前の便で書きました和泉舞さんの舞踏のこと、私、そちらの方に詳しくないものですから、少しいい加減なこと書いてしまったのではないかと思います。パントマイムを思い出した等書きましたが、和泉舞さんはパントマイムのスキルはなく、困惑されたようです。舞踏は「日本独自のダンス」なのだそうです。和泉さんは演劇から始まり自分で劇団を結成されていたこともあるようです。それから舞踏の道に進まれ、大野一雄、大野慶人氏らに師事。舞踏はフランスやドイツでとても評価されているそうです。日本独自のダンスと聞くと、松本さんの三味線ととてもよくあっていたのもわかるような気がします。和泉さんの夢は、原爆保有国と原発保有国を回り、「原爆の図」のシリーズの公演をすることだそうです。凄いですね。
原爆の図と言えば、知の木々舎のブログに、私の手紙と中山さんの手紙の間に入っている絵、「原爆の図」です。打ち出しのコピーで分かりますかしら。丸木美術館から承認を得ているそうで、ありがたいことです。
もう一つの訂正は、前に書きました今田耕二さんのことで、「今田さんのキュウリもみの話ですが、彼は、あなたの『死の影』を集英社の『戦争×文学』で読み、連想して書いたようです」と書いたのですが、事実と違っていたようです。彼はこの話をずっと前、彼の自分史『慟哭の広島』の第2版(二〇〇八年)に書いているというのです。『戦争×文学』を読むずっと前からキュウリに思い入れがあったわけです。今田さんは、紳士なので、自分の手紙の書き方が悪かったから、と言われますが、私、彼の自分史を頂いていますので、どうも、私の思い込みがあり、書き方が雑駁だったと思います。高齢化のせいにしたくありませんが、気を付けなければいけませんね。
彼はこの話を第一版には書いていませんが、読んだ読者の方から、原爆症をどうして治療したかぜひ知りたいといった意見が寄せられ、実態をきちんと書くべきだと思ったようです。
今田さんは、死体の片づけを手伝わされたため、残留放射能を吸ったのでしょう、高熱を出し、寝込むのですが、お母さんが、近くの日本製鋼所の医者に縁故で往診を頼み、毎日注射を打ってもらった。何の注射かと聞くと、「ビタミンだ。気休めよ」と言われたそうです。食べるものもろくになかったが、キュウリの塩もみをやたらに食べていたことを、お母さんが後によく話されたそうです。今田さん自身はキュウリのことを覚えていないそうで、お母さんの話を聞いて、キュウリのことが記憶に強く残ったということらしいです。キュウリが火傷に良いというのは私も前に聞いたことがあります。中山さんの看護婦さんは信じなかったのでしょうが、民間信仰のようなことはあったのですね。今田さんも熱のなかでキュウリが辛うじてのどを通ったのでしょう。
あのころ、放射線のことも医者だってわからなかったし、医者もいなかった。薬もない。とにかくみんな、よさそうなことをやってみたのではないでしょうか。よく聞く話はドクダミで、煎じたとか摺り込んだとか。長崎の秋月先生の味噌汁の話は有名ですが、とにかく何でもいいと思うことはやらざるをえない。長崎の方ですが、牛の生血がいいと聞き、お父さんがどこかから手に入れてきて、気持ちの悪い生血を無理やり飲んだという人もいます。よく牛の血が手に入ったものだと驚きますが、お父さんがどんなに苦労して手に入れられたか、身につまされます。
今田さんはとにかく何の医学的治療もなしにお母さんの介護だけで回復したこと、そしてまだ、今、生きていることを「奇蹟」と思う。中山さんの書簡の結びにある「死者によって生かされているのでしょうか」の言葉に共感し、ひたすらその思いにひたっているとありました。
私も、自分が生きていることの不思議さ、生きている意味、改めて考えております。

中山士朗から関千枝子さまへ

 9月14日付きのお手紙拝見し、書き残しておくことの難しさ、ひと事ならず私自身も近ごろ身にしみて感じているところです。
前々回の関さんの手紙によって元・陸軍特別幹部候補生の存在を知りましたが、たまたま九月一八日の朝日新聞の「声」の欄―語り継ぐ戦争で、東京都大田区の飯島 昭氏(85)の陸軍船舶特別幹部候補生第四期生の話が出ているのが眼にとまり、驚きました。なぜならば、関さんが調べて書いておられた少年兵たちの階級といいますか、身分の呼称がまったく同じで、しかも年齢も近いように思えたからです。
 けれども書かれた内容は、指導候補生の厳しい指導に耐えきれなくて脱走し、逮捕されて帰隊するという少年兵の話でした。
 軍法会議で処罰されるところでしたが、終戦によって不問に付され、戦友と一緒に復員したそうですが、戦後開かれた戦友会には、彼は一度も出席しなかったと書いてありました。
 この少年兵たちは一九四五年(昭和二十年)六月、香川県小豆島の「若潮部隊」に入隊し、短期訓練で、即戦力として厳しい訓練に明け暮れていたのでした。脱走した少年兵は、浜に繋留してあった小舟を漕ぎ、本土の岡山県に渡り、列車で九州の実家に帰ったところで逮捕されたということでした。
 この事実と,似島でので陸軍船舶特別幹部候補生の救援活動を交差させることによって、彼らの全体像が鮮明になり、戦争がもたらす不条理の世界が浮かび上がってきます。
 そして、六七年たってようやく語りはじめられた言葉を重ね合わせることによって、戦争が国民にもたらした悲惨な状況が克明に伝えられていくのではないでしょうか。
 よく「百年河ヲマツ」と言われるように、人々の記憶から戦争の悲惨さが消えるには百年の歳月を要するとされています。本来、この言葉が持つ黄河の濁流が澄んで清くなるのを待ってもせんないことだ、という思いもありますが、その時代を生きた人間の証は残しておきたい,と老いの身でつぶやいています。
 いつか濵田君が、原爆を投下された八時十五分にどこにいたかによって、生と死が分かれていたと書いていることを紹介したことがありましたが、このたびの陸軍船舶幹部候補生の投稿記事を読んだ時、つくづくそのように感じました。お国のためと情熱に燃えて志願した少年兵たちでしたが、終戦まぎわにいた場所によって、戦争に対する認識もそれぞれ異なっていたのではないでしょうか。
 関さんから、原子野についての発言がありましたが、この原子野でもその日どこにいたかによって、被爆の認識の度合いが異なっているように思います。
 たまたま知人から教えられて知ったのですが、ジョン・W・トリート著『グラウンド・ゼロを書く』―日本文学と原爆(法政大学出版局)の中に、私の『死の影』の文章の一部が注書きに引用されていました。自分の作品中の文章なので、はばかられますが、現時点での関さんとの手紙のやり取りで、必要なことだと思いますので、書いてみます。
 序文に<原爆投下の瞬間、広島や長崎にいあわせ、後にその体験を 書くことになった日本人は、語りだす前に、必ずある事実にふれようとする。一九四五年八月六日あるいは九日の朝、自分はどこにいたのか、誰もが、この歴史的事実を記しているのである。(中略)
 ある原爆文学の作者は中学校の授業(学徒動員中の建物疎開作業の間違い)を思い出しつつ、「同じ地点で被爆しても、整列した位置によって、放射瀬の影響は違っていた」と述べている。
 また、大江健三郎が「広島への様々な旅」で、火度いきずあとから解放された一女性について、「屈服しない被爆者の一典型」と賞賛している個所の注として、<もちろん、他のケロイドのある被爆者は、より低く評価されるが、より人間的な実存の選択をしているかもしれない。中山士朗は短編小説「死の影」(一九六七年)において、中学生の時に被爆した広島の被爆者グループについて述べている。「しかも、ケロイド体質になりやすい者と、そうでない者とのちがいがあったろう。すぐに治療を受けた者と,充分に受けられなかった者との差もあるろう。こうした幾つもの条件が重なって形成されたケロイドであった。ところが、歳月が経つにつれ、人々の心も、生き残ったことを互いに祝福しあった時代から、自分より醜いものを見つけて満足する時代になっていた」>と引用しています。
 著者は、現在イエール大学教授で、本書のほか井伏鱒二に関する研究。日本文化論でも知られています。
 このように戦争体験にしても、被爆体験にしても、昨年の東日本大震災にしても、東京電力福島第一原発の事故による被曝体験もそれぞれがいた場所にいおって、それぞれ認識が異なってきますが、もっとも怖いのは、そこに差別が派生することだと私は思っています。 


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