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往復書簡・記憶へ架ける橋 №1 [核無き世界をめざして]

記憶へ架ける橋 1

                  舞踏家  和泉 舞・丸木美術館学芸員  岡村幸宣

岡村幸宣さんへ

 この去る9月16日、被爆者の声をうけつぐ映画祭2012で岡村さんが話したことと会場からの質問に色々なことを感じました。その中でも、原爆の図への女性からの質問、「私は被爆者です。実際はこんな美しくはなかった。丸木さんは美しく描いてあげたかったと言ってますが、その点について、どうお考えですか?」その返答、「第一部幽霊に描かれている赤ん坊は美しく描かれていますが、第二部火では同じ場所に黒こげの赤ん坊を描いています。たぶん事実を描くことと美しく描いてあげたいという葛藤があったのだろうと思います。丸木さんの絵から原爆に関心を持つ人もいると思います。原爆の図はその窓口になるのだと思います。」

 私は非常に共感したのです。それは私が原爆の図シリーズを創作するときに、いつも悩むことだからです。事実をありのままに伝えるのは、写真や被爆者の絵や語り部の方が雄弁です。私の表現が、あまりに悲惨過ぎると観客は受け入れ難くなるでしょうし、抽象的過ぎて事実が伝わらないのも意味がありません。原爆によって何が起こったのか。被爆者の地獄だったという情景を再現する必要があるのです。地獄を体験した当事者は二度と見たくもない光景ですが、私や岡村さんのように戦争も知らない、広島の惨事も見ていない世代は、何も知りません。私が踊ることで、広島・長崎の惨事が立ち現れなければ、この世代には伝わらないわけです。一番見てもらいたいのは、これからを担うこの世代なのですから。

 8月26日「原爆の図シリーズ第5部少年少女」独舞公演、中国新聞記事(8/23)を見たと、広島の女性から電話がありました。いきなり「こんなことはやめてください。」と切り出し、「私は広島の被爆2世です。毎年、慰霊祭の時に若い人たちが明るく歌ったり、踊ったりしているのを見ると、腹が立って腹が立ってしょうがない。いつか言ってやろうと思ってた。あなたの記事を見て、またかと電話しました。私の母は被爆者で地獄を見てきました。私は母からその話をずっと聞いてきたのです。母は苦しみ2年前に死にました。あの日を表現することなんて絶対に無理なんだからおやめなさい。」口を挟む間もなく話されました。朝一番の電話でした。幾年もの怒りや悲しみを話せずに苦しんでこられ、思わず受話器を上げたようでした。

 このようにはっきり拒絶されたのは、初めてのことでした。岡村さんは仕事柄色々な方とお話するので、このような経験は多々あるでしょう。そういえば、原爆の図シリーズをやり初めて間もない頃、「戦争も知らない者にわかるわけはない」と言われた話を聞いたような気がします。

 その方には、「今まで公演を見に来て下さった被爆者の方やお話を伺った被爆者の方からは、続けてくださいと言われました。そのお気持ちを引き継ぎたい」と話しました。「人によって考え方は違いますからね。でも、このように思っている者もいるとわかっていてください」と言い、電話を切られました。

 痛いほどその苦しみが伝わってきました。同じように思っている人は、もっといるのだろうと思います。被爆者とそのご家族に、一歩だけ近づけた気がしました。会場にお越しになれる距離ならば、是非ご招待したかった。公演では、その方のお気持ちとお母様のことも含めつつ舞わせて頂きました。

 非常に貴重な体験でした。はけ口として頂けただけたことは、このシリーズを続けてきた成果だとも思います。被爆者やそのご家族の声に耳を傾け、さらに謙虚さを持って、続けて行こうと思っています。今後も資料や丸木さんのお話などお世話になります!

 岡村さんは、このような方に初めて出会ったとき、どのように感じたのでしょうか?

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和泉舞さんへ

先日は、「被爆者の声をうけつぐ映画祭」でお会いできて、嬉しく思いました。

『HELFIRE 劫火―ヒロシマからの旅―』は、1986年公開の作品ですが、今の時代に観てもさまざまな示唆を受ける作品でしたね。
丸木夫妻の慎ましい暮らしぶりや共同制作の過程、二人の画家の生涯を貫いた平和への思いといった重要な要素が詰まっていて、あらためてジャン・ユンカーマン監督の目くばりの確かさを感じました。

さて、ご質問の件。
私の場合、仕事上、被爆体験を持つ方に対しても《原爆の図》について語らなければならないという難しい立場を背負うことがたびたびあります。
「あの日を表現することなんて絶対に無理」というご意見は、本当にその通りだと思いますし、「見せ物にするのはやめてほしい」という心の痛みも、受け止めなければいけないと思います。その上で、そうした問題を理解しながら、なお表現せずにはいられない人たちがいたことを、私は伝えていかなければならない。その引き裂かれるような感覚は、きっと、丸木夫妻が直面した思いと似ているのだろうと思うことがあります。
被爆体験を持つ方々とどのような対話をしたか、ひとつひとつの例を詳しく覚えているわけではありませんが、必ずお話しするのは、丸木夫妻の絵が、被爆者と非体験者のあいだをつなぐ「架け橋」のような役割を果たしてきたということです。

初期の《原爆の図》が発表された1950年代はじめは、米軍を中心とする連合国軍が日本を占領していた時代であり、原爆被害についても厳しい報道規制が存在していました。
新聞や雑誌などの印刷物では報道できなかった、つまり、知りたくても知ることができなかった体験者の痛みを、芸術作品の展覧会で全国の人びとにいち早く伝える試みを行ったことの意味、そして現在も、時代を超えて、原爆や戦争を体験していない世代の想像力を広げていることの意味は、とても大きなものだと思います。

原爆は、たった一度の爆発で無数の生命を奪いました。
しかし、痛みに対する想像力は(たとえ体験者の痛みに近づけなかったとしても)、もしかすると奪われてしまうかも知れなかった、たくさんの生命を「生かしている」のではないか、と思うのです。
そして、芸術表現は、そうした想像力を人々に喚起させる上で、とても大きな力を発揮するはずです。

被爆体験の継承については、本当の意味で「体験の中心」にいた人々は一瞬で命を奪われてしまい、記憶を残すことができなかったという大きな壁があります。
また、70年近く前のできごとに対し、現代を生きる私たちがどこまで近づこうという意識をもっているのかという、受け止める側の問題もあります。
そうしたことについても、いずれお考えをお聞きしたいのですが、ともあれ、和泉さんが現在、舞踏によって試みていることは、非体験者による非体験者への「継承」という、とても興味深い、そして今後否応なく被爆の記憶の継承の中心となる行為だと思っています。

ジャン・ユンカーマン監督が、丸木夫妻の記録映画を撮影することになったきっかけについて、9年ほど前にラジオのインタビューで印象的な話をされていました。
「日本に初めて来たのは高校生のとき。広島と長崎をまわって資料館などを見たけれど、そこに抜けているのは人間の像、人間の顔なんですね。丸木美術館の《原爆の図》を見たときに、初めて被爆者の顔を見たという感じがしたので、大変ショックを受けて感動しました。」(2003年8月6日、NHK国際短波放送・夏季特集「『原爆の図』は今」抄録、2003年12月25日「丸木美術館ニュース」第78号より)

《原爆の図》は、いわば人間の身体感覚で原爆をとらえようとした絵画なのですね。
丸木夫妻は、《原爆の図》を描きはじめる前に、(原爆を投下した側の勝利の象徴である)キノコ雲でも、(すべてが焼き尽くされた後に残った、つまり後の時代の人にとって意味のある)原爆ドームでもなく、今そのときに傷つけられている人間の生身の肉体によって原爆を表現しようと、はっきり決めていたはずです。
そしてそれは、本当に重要な意味をもつ決定だったと、私は思っています。

身体感覚といえば、和泉さんは、まさにご自身の身体そのものを表現手段にして原爆に対峙していらっしゃいますね。
なぜ《原爆の図》全作品をライフワークとして舞踏化しようと決意されたのか、私はまだ和泉さんにお聞きしていません。
初めて和泉さんが《原爆の図》の舞踏化をされたのは、2003年のことだったでしょうか。
《原爆の図》のなかに潜んでいる「身体感覚」について、和泉さんは当時どのようにご覧になっていたのでしょう。
そうした《原爆の図》の特徴が、全作品を舞踏化しようという和泉さんの決意にもかかわっていたのでしょうか。
どうぞ、お考えをお聞かせ下さい。

 岡村幸宣

写真は「水をください」を踊る和泉舞さん(撮影:吉田隆一)


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