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パリ・暮らしと彩りの手帖 №2 [雑木林の四季]

ルーブルのcarte blanche 展覧会

                          在パリ・ジャーナリスト   嘉野ミサワ


  今年三月ののパリの”書籍フェアー”の特別招待国は日本 で、日本は17年ほど前にも招待国で、他から文句が出るのではないかとも思えたが、この辺りの事情には通じている筈の私にとって、想像を超えていたのは、フランス語に訳される本の第一はもちろん英語、そして今ではフランスでも若い人たちは英語が読めるように,話せるようになって来ているから,ここで流通する本の数にしたら,日本の場合とは全く別なのは明らかだが、それにしても翻訳される本の2番目が日本語になったというのには驚いた。日本からは大江健三郎を始め22人の作者が読者のためにやってくるという。翻訳者達も総出でつとめることだろう。私もここに長いから、ノーベル賞帰りの川端康成とルーブル美術館を見たり、安部公房と文学を語ったり、知の木々舎に連載の中村汀女さんとパリを散策したり、思い出は尽きない。ジャン•コクトオを彼のパリのパレロワイヤルの家でインタヴューしたのは1963年10月11日だったが、その前夜に歌い手のあのエデイット•ピアフが死んで、コクトオは先ずそのことばかりを話してやまなかった。そして、帰って来た翌朝、私はコクトオその人の死を知ったのである。

  このことはまたの日に譲るとして、日本でまだ学生だった頃に尊敬していた行動の作家,アンドレ•マルロオが来日して日仏学院での講演でさらに感動し,密かにその著作を集めたものだった。日本に留学していた知人がパリにいるご主人に頼んで、マルロオの”空想美術館”の特別装丁したオリジナルの27番をXマスプレゼントに贈ってくれたのは今でも私の宝物である。パリに来て他の号も買ったが,普通装丁の一般用だ。そして,フランスに来て数ヶ月後に国立放送局が、日本語の番組を始めたのに採用されて、”フランスの12人の作曲家たち”の放送を皮切りに、1ヶ月後には水を得た魚のごとくに自分のプログラムを組んでの仕事が始まったのだった。

  この60年代初期のフランスはドゴール大統領がマルロオを文化大臣に任命し、すべての人が同様に文化の恩恵を受ける権利があるという発想から、それまで,大都会に集中していた、美術、演劇、音楽など多様な文化の形を地方の人々も享受できるものとすべきであるという考えで、各地方にMaison de la Culture, 文化の家を作ることになり、その最初に選ばれたのが、それまでルアーヴルの町の美術館であったものを文化のいろいろな形が受け入れられるものに変えた。そしてその披露式が1961年に行われ,マルロオを迎えて盛大に行われたのだった。それは今から50年前の事、私も出席して取材、日本語の放送を作り、短波で 送ったものだ。私の放送をいつも訊いていたと本に書いたフィリッピンのジャングルに隠れて暮らしていた小野田少尉も聞いて下さったことか。もう一人のファンで諸外国を指揮棒一本で回っていた岩城裕之もしかりだったろうか。

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          ルアーヴル美術館  美術館の前に、海を背景に建てられている彫刻はアダン。

 さて、最近ではむしろ美術館の名で呼ばれながら、コンサートや演劇など多様な面をみせているルアーヴル美術館は2011年後半から2012年前半にかけて大々的な計画で、いくつもの展覧会を次々に発足させたのである。それはまだあといくつかのプログラムとして 順次変わって行くから,今年 のニコラ•ドスタール展が始まるときにもう一度行こうと思っている。

 パリに戻った翌日はルーブル美術館から興味ある展覧会の前の記者会見への招待が来ていた。それは数年前からルーヴルが始めている、各界の有名人にcarte blanche (白カード)を与えて、ルーヴルの展示室に自分の思うような作品なりを入れて展覧会とするというもので、今まで、ダンサーであり、造形美術作家のヤン•ファーブルや、作曲家のピエール•ブーレーズ、演出家のパトリス•シェロオなどに自由演出をしてもらったものだが、今回は気難しい変わり者のノーベル賞作家、Jean- Marie Gustave Le Clezio, を迎えるのに成功したらしい。ルクレジオはインタヴューには応じないし、テレビやラジオにも出ず、南仏で暮らし続けていると言うのに現代の問題を的確に捉えての作品がすばらしい.その上マスクが良いとあって、憧れる人が日本にもいると聞いた。この記者会見はごくわずかの記者だけで、フランス人でないのは私だけだった。いよいよその展覧会を見たあと、責任者のマダム•マリーロール•ベルナダックがルクレジオがアフリカの彫刻やメキシコの絵画に大変魅せられている事について、さらにアメリカの時代がかったファンタステイックな2台の車も遂にルーヴルの展示に入った事などの説明のあと、記者達が質問できることになった。ところが驚いた事に誰も質問しない。いや誰もあえて質問しないと言った方が当たっているだろう。私は我慢ならなくなって、“あえて質問させて頂きますが” と始めた。私として会見でこんなよけいな事は言う事はない。つまりそういう特殊な雰囲気だったのである。

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             ルーブル美術館の記者会見の模様 左から二人目がルクレジオ (筆者撮影)
 
 わたしの質問というのはこうだ。“今回の展覧会を見るほどに頭を離れない事がある。それは、ルアーヴルのオープン50年の記念に行って来たばかりで、マルロオの“空想美術館”の著作が頭から離れないことだ。あなたの今回の展示についての話を聞いて、一層その思いを強くしたところだが、ルクレジオさん、あなたにとってこのマルロオの本は今回のあなたの展覧会の創造に何か影響を与えたのでしょうか。”というものだった。ルクレジオはこの瞬間からまるで人が変わったように、滔々と子どもの時からマルロオの著作は自分の遠い道印だった、そして彼が政治家として、納得できない事をした時から、避けて通るようになった時期もあったが、それでもやはり今もすばらしい作家であり、あの空想美術館は私たちの青春を導き、燃えさせたものだから、無意識であったとしてもあなたの言う通りと言っていいだろう。こうして熱して話し続けるルクレジオが終わるとそれで記者会見は終了、ルーヴルの部屋を出るとき、マダム•ベルナダックは私に言った。”あなたの質問がピタリ、すばらしかった。彼はあれからすっかり熱を込めて一気に話しましたね”と。

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展示品3点:上からアメリカ車(ビュイック、これも展示品)、アフリカナイジェリア王朝の女性の頭部、メキシコの画家フリーデカロの自画像

 


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