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じゃがいもころんだ №18 [文芸美術の森]

年の暮

                                   エッセイスト  中村一枝

 日本語の年の暮という言葉はゆかしいというか、ちょっとふくみのあるいい言葉だと思う。そして師走(しはす)となると字面通り、急に気ぜわしい気分になるからふしぎである。
 十二月になると最近、町はクリスマス一色になる。にわかクリスチャン、私もその一人だが、があちこちに出現する。もう一つ師走というと連想するのが忠臣蔵である。今はかなり少なくなったが、以前、十二月十四日の前後になると一せいに忠臣蔵の芝居や、映画、テレビ番組が軒を連ねた。
 忠臣蔵といえば思い出すことがある。私が少学五年のときに戦争が終わった。誰に影響をうけたわけではないが私はかなり熱烈な軍国少女だった。終戦後、疎開先の伊東の映画館で忠臣蔵をみたときは全く感動した。それまで忠臣蔵をみたことがなかったらしい。尤もその日映画館にいた観衆の多くは、敗戦という現実と、主君と城を失った赤穂藩士にわが身を重ね合せて泣いていた人もたくさんいた。 子供心にその印象は強烈だった。そういう現象は日本のあちこちで見うけられたに違いない。これはまずいと気付いたのか、連合国軍総司令部(GHQ)は忠臣蔵の上演、上映 を一さい禁止した。その話を聞いて、軍国少女は又々興奮した。アメリカ軍が禁止するならば私が忠臣蔵を後世に残すと息まいて、紙芝居をつくったのである。画用紙に一枚一枚絵を書いた私の心意気に感動したと言って、わざわざボール髪で装置を作ってきてくれた人もいた。残念ながら私の図画の才能は最低でひどい絵だったが、これがわが家を訪れてくる大人たちに大受けに受けたのだ。絵はともかく、私の解説が面白いと、父のところにお客が来る度に忠臣蔵をやらされた。
 その忠臣蔵が父の郷里、愛知県横須賀村では長い間ご禁制の芝居だったことを知ったのは、私が中学生になって父の「人生劇場」を読む機会を得てからである。父の郷里横須賀村は吉良上野介の所領であり、更に上野介はそこでは人徳の高い領主として領民の尊敬と信頼を一身に受けていた。日本中の芝居小屋で忠臣蔵をやろうとも、横須賀村ではぜったいにやらせないぞ、村中がその心意気だった。が、さすがに明治に入るとそれもすたれていった。「人生劇場」によると、村の劇場、本明座で忠臣蔵を上映したときのこと、主役の大星由良之助が勢いこんで花道をかけくる途中でひどい胃けいれんをおこし、芝居は中断、めちゃくちゃになった。その後、上野介の慰霊祭までして再演したのだが、今度は楽屋裏で火事がおこり小屋は焼け落ちるという、ウソのような話があった。
 ところでこの話はもう一つ後日談がある。やはり忠臣蔵を上演せずにずーっときた場所があったのだ。それが米沢市、曽て
の、上杉家の城下町である。
 上杉家と吉良家とは非常に深い、入り組んだ関係がある。義士の討ち入りがあった時、吉良邸には上野介以外に上杉家の次男坊で、吉良家の養子になっていた吉周がいた。彼はまだ十七歳の少年で小長刀を持って奮戦したが傷つき捕えられた。その後幕府の罪人として諏訪に流罪二十一歳で病死した。
 年の暮になると忠臣蔵を何となく思い出すのには経てきた年月の重みもある。ずーっと憎たらしいおじいさんだと思っていた吉良上野介が父の郷里の殿様で、しかも人徳の深い人だったというのも面白い。吉良町と米沢市は今でも親しい関係を保っているという話である。


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