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広島第二県女二年西組 原爆で死んだ級友たち №33 [核無き世界をめざして]

第四章 島へ

                                    エッセイスト  関 千枝子

  逃げる途中、軍のトラックに救われ、宇品港から、あるいは川の土堤から、船で、島や、呉線沿線の軍の施設に送られた生徒は十人いる。似島(にのしま)に大西逸子、佐古田昌恵、古城栄子、植松京子。
金輪島(かなわじま)に玖村佳代子、工藤よし子、東藤瑞意。呉線沿線の鯛尾(たいび)陸軍病院に山田玲子、増本悦子。同小屋浦に品川惇子である。鯛尾、小屋浦などほ、広島市から近い似島などにいったん運んだものの、満員となり、また船で移送したらしい。
 島に収容されたものの氏名を宇品港に貼り出したり、一応の手は尽しているのだが、肉親も、まさか島に行っているとは思わず、情報は伝わらず、わかった時にはもう死んでいた、というケースが多い。この十人の中、息のある間に肉親に会えたのは、わずか三人にすぎない。

玖村佳代子

 金輪島は、宇品と仁保のすぐ南に浮ぶ島である。当時は全島が陸軍の施設で、造船などの作業場となっていた。玖村佳代子の姉小夜子は二十年三月女専卒業予定のところ、戦中のくりあげ卒業で、十九年九月卒業。そのまま学徒動員先の金輪島に動員されていた。玖村家は広島市西観音に家があったが、当時佳代子の兄は海軍兵学校生。家では母、小夜子、佳代子の三人が暮らしていた。六日は小夜子が金輪、佳代子が雑魚場、母が町内からの勤労奉仕で水主(かこ)町(爆心の南一・三キロ)。当時の県庁の南側になる)に出かけ、家は無人であった。
 小夜子は心配ですぐにも広島に行きたかったが禁足令が出、どうすることも出来ずそわそわしていた。六日の夕方から、負傷者が金輪島にどんどん運び込まれてきた。とても人間とも思えぬさまを見た時、小夜子は広島はもう絶望だと背筋が寒くなる思いだった。その晩、小夜子の母が船で運びこまれてきた。うわごとのように、クムラサヨコがこの島に勤めているといった。伝え聞いた小夜子がかけつけ、倉庫の中に寝かされていた母と会った。
 そのうちに、その倉庫と反対側の島の南の方の倉庫に第二県女の生徒がいて、姉が金輪島にいるといっているという報が入った。名前まではわからないという。小夜子は思った。もし妹でなくても、第二県女の生徒なら佳代子のことを知っているかもしれないし、また、同じ二県女の生徒、妹と思って何かしてあげたい、とにかく行ってみょう……。小夜子はその倉庫に行ってみた。
 倉庫の中は負傷者でいっぱい。どの人も顔も形もわからないように焼けている。男か女かも見分けのつかない人がいる。目をこらしているうち、胸の半分が焼け残り、白いブラウスが残っている女学生が眠っているのが目についた。そのブラウスに梅を形どった第二県女の校章がついていた。小夜子は、近づいてその校章を裏返してみた。と、校章の裏に、クムラと刻みこんである文字が見えたのだ-。
 あのころ、校章を失くしても簡単に買い替えられる時代ではなかった。私達は、もし落しても戻ってくるように、大切に校章の裏に釘などで名前を刻んだものだ-。
 小夜子は言葉もなかった。これが本当に自分の妹か……。
「私たちは四人兄妹で、うち三人が女でした。末の佳代子は一番顔だちがよく、きれいだと、父も一番可愛がっていたのです。あの美しかった妹の、面影もない。泣けて、泣けて……」
 本当に、玖村は美しい人だった。派手な顔立ちというのではない。品がよく、〝優雅〃な点で三浦美枝子と双璧だったろう。
 目をさました佳代子は姉を見て喜び、こわかった、抱いてくれといった。
「抱こうにも抱いてやれないんです。腕から下すべて焼けてどろどろで……」
 佳代子の話だと、B29の爆音が聞こえ、瓦を持ったまま、空を見上げた瞬間、真黄色になり、あとはわからなくなった。気づいたら傍に誰もいなかった。逃げて川の土堤にたどりついたら、兵隊が船にのせ、金輪に運んでくれた……。
 小夜子は母と妹と二人の面倒を見た。二人をいっしょにすれば看病は楽だが、重傷の二人が顔をあわせたら、お互いにショックだろうと運ぶのもはばかられ、小夜子が行ったり来たりすることになった。それだけでも手がまわりかねたし、公務もあった。ちょうど金輪島には第二県女の三年生が動員で来ており、付添の教師の一人が野田田鶴子(現姓・藤井)だったが、野田は小夜子の女専の同級生だった。野田が看病を手伝ってくれ、小夜子は何よりありがたかった。
 母は八日の晩八時に死に、佳代子は火傷の程度は母より重かったが、十二日まで生き、同日午後四時に死んだ。
「母が死んでもーまだ私は妹が死ぬなんて思えないんです。なんとか直してやりたい、直ってほしい……」
 おにぎりとすまし汁が食事に出た。佳代子は口の辺りがひどくただれていて、すまし汁の塩分がしみるので飲みたがらない。
「私は、何とか食べて直ってもらいたいということしか考えない。むりやり一さじ飲ませたことがあるんです。痛がって……」
 小夜子は今でもすまし汁を飲むたびに涙が出る。なんてひどいことをしてしまったのだろう……。最後は佳代子は錯乱状態に陥り、授業に出ているつもりなのか、手をあげて答えたりして死んだ。
 母も妹も十分に最後まで看病した。遺骨もわからぬ人の多い中でまだ幸福な方かもしれぬ。そういいながら小夜子は原爆の話をしたことは今までに一度もない、といった。小夜子は今、呉で教員をし、時々、生徒に原爆の話をしてくれといわれるが、話せないという

『広島第二県女二年西組』筑摩書房


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