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軍隊と住民 №10 [雑木林の四季]

基地拡張と基地被害の増大  3

                                                                               弁護士  榎本信行 

  騒音の実情は基地南側の昭島市でも同じであった。「横田基地公害訴訟」闘争の根源はすでに朝鮮戦争当時に存在していたことを示している。
 五一年九月の平和条約締結後、前述のように米軍による言論統制が解除されてから、新聞紙上に米軍に関する記事が増える。以下地元多摩版によって見ることとする。
 五一年一一月一八日には、米軍B29墜落事故が発生する。当時の朝日新聞記事によると次のとおりである(同紙一一月一九日付)。

 (立川発)一八日午後六時二五分頃都下北多摩郡砂川村西砂川三二七〇番地先に飛行機事故が起こり、
都営住宅、昭和飛行機工業社宅、隣接農家一帯に爆音および飛火による損害が発生した。
 立川地区署の調べによると、事故によるガソリンの飛火のため同地内の農小林太市さん(六〇)ほか約二百坪が全焼、他の付近農家松田力造さん(七日ほか二十六戸が爆風で屋根や建具などが吹き飛ばされ使用にたえないまでに大破、一千メートル圏内の都営住宅、昭和飛行機工業社員住宅、付近農家、小学校など百余戸がガラス戸などを飛ばされるなどの損害を受けた。このため前記松田さんほか約十名が軽傷を負った。…
 なお事故発生後横田基地では不発弾がある見込みなので立川地区署を通じ、付近住民に事故現場か 一キロ以外に避難するよう勧告した。…

(AP特約)米極東空軍スポークスマンは、十八日「B29一機が十八日午後六時半頃東京西部四十八キロの横田航空基地で離陸のさい墜落炎上した」と発表した。
  乗員十二名は奇跡的に死を免れた。何名か負傷した模様である。負傷の程度は明らかでない。

 飛行機が搭載していた爆弾が爆発したようであるがよく住民に死者が出なかったものである。これほどの事故でも続報はほとんどなく、その後の基地に関する新聞報道との違いが鮮明である。
 一一月二〇日付の朝日新聞には次のような記事があり、当時の基地による被害者のみじめな立場が示されている。

 岡崎官房長官は十八日横田基地のB29墜落事件による被害者に対する政府の見舞金について、十九日次のように語った。これまでの例だと見舞金は終戦処理費から支出しているが将来は行政協定に織り込んで細目を決めておく必要がある。

 損害賠償金ではなく、見舞金であり、それも終戦処理費によるというのである。
 五二年四月二日には、「落ちた爆弾に注意-犠牲者全員救出さる-B29墜落事故」という記事がある。これは青梅市内の山林にB29が落ち、機体がばらばらになり、米兵が死傷し、山林が焼けたという事故である。
 五二年六月七日には、「戦闘機が空中分解-村山町内の芋畑に墜落」という記事が載っている。この事故は、同月六日朝、村山貯水池(現在の多摩湖)上空でジェット戦闘機が空中分解し、機体は村山町(現在の武蔵村山市)内のじゃがいも畑に墜落し、操縦員はパラシュートで脱出したが、補助タンクその他の機材が埼玉県入間郡内の山林に落下し、山火事が発生し、山林、茶園が焼けたという事故である。
 その七日後の同年六月一四日には、「白人兵士の悪戯-列車運転士に一週間の火傷負わす」という記事が載る。これは、米兵が青梅線立川-西立川間の踏切で進行中の貨物列車にゴムパチンコでかんしゃく玉を打ち込んで、運転手に火傷をさせたという事件である。この米兵は、その後逮捕されているが、この危険ないたずらで米兵がどんな処罰をされたか報道はない。なお、この事件に関連して、次のようなことが報じられており、当時の殺伐とした基地の町の様子を表している。
 去る一日地下道で駐留軍兵士のばらまいたカンシャク玉を踏みつけた老婆が驚いて卒倒したのをはじめ連日のように、ラッシュ時をねらい面自半分にプラットホームにカンシャク玉をまき散らすなど悪質ないたずらが行われ一般乗客は腰をかがめておそるおそる歩く始末

 また同年六月二八日には「犯罪都市立川-五月は都最高」の記事がある。

  立川市内における五月中の犯罪状況が同署犯罪統計課の手でまとまった。特異な環境と地理的条件から犯罪発生率は都では第一の高率を示し被害者は三分の一がヤミの女、駐留軍兵隊の犯罪の温床は高松町の置屋、柴崎、曙町の商店、羽衣特飲街指定地などが指摘されている。発生件数二百二十七、被害金額に百八十七万円でこれは市民一人あたりにすると五十二円、時間的に見ると一分間に六十七円の被害で窃盗百六十七件、詐欺五十件が主である。この他売春条例で検挙されたヤミの女は三百八十九のおおきに達していた。

 七月二日には、「立川市で夜の女狩り-二百七十一名検挙」と報じられている。
 また六月三日には、立川基地内で防空訓練(!)をするという通知が都庁から立川市にあったという記事がある。

 米軍の立川基地は五日午前十時三十分から十一時三十分の間サイレン吹鳴を含む防空訓練を行うと二日都庁から立川市役所に通報があった。なお立川市役所から同基地は今三日も同時刻に飛行機中心に煙幕を用いる防空訓練を行う旨通知があったが、これは十六日に延期となった。

 同月一五日には、「立川基地は今十五日夜八時半から防空訓練を行い灯火管制を実施するが立川市役 所は民間側も協力するよう市民に周知した」という記事がある。まさに戦時体制である。
 特殊な基地被害として、井戸水の汚染というのがある。筆者の家の井戸も被害を受けた。

 「燃える井戸水 立川富士見町にて」の朝日新聞昭和二七年七月二二日付けの朝刊記事は、折からお盆で休みの立川市民を驚きとおののきの底につき落としました。この井戸は日米自動車モータースといっていた自動車修理工場、吉村真一さんの御宅の井戸で、基地からは青梅線をはさんで三〇〇メートルほどの距離にあり、この吉村さん宅の他にもう二カ所燃える井戸が出たのでした。また 真空ポンプを使ってこの燃える井戸をくみあげて実際に使った人も出てきて、このガソリン騒動は大変なものであったのです。緑川に画した映画館が、緑川に投棄されたガソリンの火災によって類焼したのもこの頃のことです。(註21)

 こうした事件は、五一年一一月から五二年七月にかけてに集中している。この頃米軍は、何をしていたのであろうか。
 朝鮮戦争は前述のとおり平和条約締結の前、五一年四月には戦線が膠着していた。しかし戦闘が終わったわけではない。かえって激しくなっていた。
 五一年一〇月中旬には、国連軍の秋季攻勢を最後として前線では大規模な作戦はなくなったが、戦闘がやんだわけではなく、彼我ともに毎日数百人以上の損害を出す激戦が続いていた。これは有利な地形を手に入れようとする陣取り合戦や捕虜獲得作戦が続いたためで、二四〇キロにわたる接触線の全正面で展開された局地戦であった。(註22)
 五二年六月に入って捕虜交渉に行き詰りの兆候が現れ始めると、共産軍の移動や集中が活発になり、後方から前線に向かう補給の縦列が増えてきた。…五二年六月初旬、異例の第八軍「韓国軍」命令が下達された。前線二四八キロに布陣している一六師団に対して「捕虜を獲得せよ。一人捕まえるごとに、一〇〇万ウォンの賞金を与える」という餌付の命令であった。
 前哨拠点の争奪は、五一年の秋に東海岸の日比山を巡る激戦などが行われていたが、五二年の前半には絶えていた。だが、やがて休戦会談がデッド・ロックに乗り上げて中断されると、五二年九月から日月にかけて全戦線で拠点の争奪が始まった。在日米軍基地もまた、活発に活動していた。

 ドッジ・ラインの実施に伴う不況に苦しんでいた日本の経済界は、朝鮮戦争によって息を吹き返した。五〇年から五一年にかけて世界貿易額は三六パーセント、貿易数量は一〇パーセント増加している。日本の輸出額は、五一年には六五パーセント、鉱工業生産は三六パーセント増加し、企業の収益率は二二一倍に跳ね上がった。しかし、この時期の日本経済にとってより重要なのは特需である。特需とは、朝鮮戦争に出動する国連軍将兵に補給するための物資やサービスの需要であり、対価は主としてドルで支払われた。特需による外貨収入は、五一年が五・九億ドル、五二年、五三年はそれぞれ八億ドル以上に達した。二六年、二七年、二八年の輸出は年一三億ドルであったから、特需がいかに巨額の臨時収入をもたらしたかがわかる。
 朝鮮半島と基地周辺の苦悩とはかかわりなく、日本は復興の途についていたのである。

(註21)三田「前掲飛行場物語」下巻 二六二頁

『軍隊と住民』日本評論社


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