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地に湧く声№3 [心の小径]

人を送る

                               東京八王子・本立寺  及川玄一

 死を迎えた人を送る。子として生を受けた我々としては必ず経験しなければならない問題です。もちろん親だけではなく、子を送る不幸、伴侶を送る経験をすることもあります。
 しかし、人を送るといっても、送り出す側の気持ちや態度はお亡くなりになった方と自分との心の距離によってずいぶん変わってくるのではないでしょうか。
 毎日沢山の方が亡くなります。ほとんどの場合、それらの人は私たちと縁がない方々です。ですから、特に悲しむこともありません。しかし、自分の子供と同じような年の子が惨殺されたというニュースを見たときはどうでしょう。自分の子供ではないから関係ない、とやり過ごせる人は少ないと思います。
 芸能人の訃報を聞いたときも同じです。熱烈なファンである人は葬儀に参列したいと思うでしょうし、大方の人は興味本位にテレビを眺めるだけです。
亡くなった人と自分との心の距離。これは大切なことです。
 自分の心にいつもある人、生きている人、そういう人がお亡くなりになったとき、私たちはその人を送る何らかの儀式を必要と感じます。
 今、東京では亡くなられた方の四割が葬儀をせずに病院、あるいは遺体安置所から火葬場に直送され、荼毘に付されているという統計があります。葬送に携わる業界ではこのような死者の送り方を「直葬」と少々揶揄した言い方で表現しています。私にはショッキングな数字でありますが、おそらくかなり正確な調査であると思われます。
 どうしてこんなにも多くの方が葬儀をされることなく、葬られていくのでしょうか。まず考えられるのは経済的な理由です。地域で出す葬儀から、業者に委託する葬儀に変わった昨今ではかなりの費用が必要です。お寺への布施にも高額感が持たれています。また、東京という土地柄もあるでしょう。
 都会の人間は冷たいといったことではありません。大雑把に言えば東京は地方出身者の集まりです。多くの方は将来も東京で暮らすことを決められていると思いますが、ご先祖のお墓を引っ越された方はわずかです。そういった方々はいずれは東京にお墓をと考えながらも、まだ田舎に縁を残しています。とりあえず故人を荼毘に付して、後々故郷の菩提寺でお葬儀をと考える方もいらっしゃいます。
 しかし、そういう例は一部で、あまり表面には出ない理由として故人との心の距離という問題があるように思います。
 人が亡くなる以前に、その人との心の距離が離れてしまい、送る側の人の心の中で、すでに別れが済んでしまっている場合です。
 死生学を教える上智大学の名誉教授アルフォンス・デーケン先生から興味深い話を伺いました。それは人には四つの死があるという話です。
 一つ目は「心理的な死」、二つ目は「社会的な死」、三つ目は「文化的な死」、四つ目は「肉体的な死」です。
 四つ目の肉体的な死はすべての我々が死と考えている呼吸や心臓が停止する死です。しかし、デーケン先生はそういった一般的な死の前にも他の死があると考えているのです。
 「心理的な死」とは、人が何らかの理由で生きる気力を失った状態のことです。心が折れてしまい、廃人のようになると形容されることがありますが、極端な場合そういう状態のことです。
 「社会的な死」とは社会との関わりを無くしてしまった状態のことです。仕事、友人、ご近所、親戚、肉親。親子であっても関係が薄れていくことは多々あります。こういう状態になると人は人であり得ず、死んだと同じであるということです。
 「文化的な死」とは趣味などからの文化的な潤いを失って生きていること。スポーツや芸術、読書など、文化的なことから得る喜びや感激のない人生のことです。
 現代社会では肉体的な死以前に、これら三つの死(心が感動したり、誰かの心と結ばれていることがない)の状態に陥りながら、肉体的には生きているという人が増えているように思えます。人としての生き甲斐や、人との社会的接点を失った人たちです。もちろん個々に状況の深さは違います。
 もし、肉体的な死を迎える以前にその人が社会的に死んでいたとしたならば、その方を心から送ろうとする人は少なく、葬儀を営む意義も見いだされにくくなるでしょう。
 昨今の葬儀離れや、縮小化する葬儀の原因を探してみたとき、そんな社会状況が根底にあるようにも思えます。


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