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都幾川のほとり通信№3 [核無き世界をめざして]

《原爆の図 第1部 幽霊》と立川展

                              埼玉県・東松山市  丸木美術館

今回は、私たちの美術館にとって、もっとも大切な作品のことを書かせて頂きます。

《原爆の図 第1部 幽霊》

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                                                                            それは幽霊の行列。

一瞬にして着物は燃え落ち、手や顔や胸はふくれ、むらさき色の水ぶくれはやがて破れて、皮膚はぼろのようにたれさがった。

手をなかばあげてそれは幽霊の行列。

破れた皮を引きながら力つきて人々は倒れ、重なりあってうめき、死んでいったのでありました。

爆心地帯の地上の温度は六千度、爆心近くの石段に人の影が焼きついています。だが、その瞬間にその人のからだは、蒸発したのでしょうか。飛んでしまったのでしょうか。爆心近くのことを語り伝える人は誰もいないのです。

焼けて、こげただれた顔は見分けようもなく、声もひどくしわがれました。お互いに名乗りあっても信じることはできないのです。

赤ん坊がたった一人で美しい膚のあどけない顔でねむっていました。母の胸に守られて生き残ったのでしょうか。せめてこの赤ん坊だけでも、むっくり起きて生きていってほしいのです

(写真は左で1クリックすると大きくなります。写真の下の題名(黒色jpg)右隣の記事題名をクリックすると元にもどります。) 

原爆投下直後の広島に駆けつけ、そのすさまじい破壊と殺りくの状況を目の当たりにした丸木位里、丸木俊(赤松俊子)夫妻が描いた水墨画の大作です。

高さ180cm、幅720cmの画面の左から右へ、焼けただれた皮膚をひきずるようにして歩く被爆者の群像。丸木夫妻は、原爆投下当日を体験した周囲の人びとの証言を集め、みずからの記憶を思い起こしながら、この作品を描き上げました。そこには、芸術家として「描かずにはいられない」という魂をゆさぶる強い衝動があったことでしょう。

 実はこの作品、発表されたときは《原爆の図》という名前ではありませんでした。

1950年2月、上野の東京都美術館で開催された「第3回日本アンデパンダン展」。目録には、《八月六日》という作品名が記載されています。

連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の占領下にあり、原爆に関する報道が厳しく規制されていた時代のことです。「アンデパンダン」というのは、誰でも無審査で出品できる形式のことですが、それでも展覧会を潰されないように、題名には神経を使わなければいけなかったのです。

 原爆の惨状を知らされなかった/知ることができなかった時代。

この作品をはじめて目にした人びとの衝撃は、どれほどのものだったでしょうか。

展覧会は10日ほどで終了しましたが、丸木夫妻は翌月に、今度は「丸木位里・赤松俊子原爆之図展」と題して、日本橋の丸善画廊で展覧会を開催しました。作品名も丸木夫妻の個人の責任で《原爆の図》とあらためました。

そして、半年後の8月に《原爆の図》三部作が完成すると、多くの人びとに支えられながら、日本全国を巡回する展覧会がはじまったのです。

1950年といえば、朝鮮戦争がはじまった年です。アメリカ軍が朝鮮半島に原爆を落とすかもしれないという危機感が、真剣に語られた時代でした。

「原爆の図展」は厳しい占領軍の目をすり抜けながら、学校や公民館、劇場、寺院、商業施設などを会場にして開かれ、人びとに原爆の恐ろしさを伝えました。

最初の会場となった広島では、峠三吉を中心とする詩人のグループが展覧会を手伝いました。九州や関西、東北、北海道でも次々と展覧会が開かれました。1951年5月に長野市で開かれた展覧会には、当時高校生だった池田満寿夫も足を運び、自身の日記に「戦争へのはげしい反抗であり、人間のおののき、叫ぶ赤裸々な姿」と感想を書きつけています。

この巡回展は、原爆の被害のイメージを全国各地の人びとが共有するための最初の試みとなりました。同時にそれは、それまで個々が抱いていた戦争体験を、横につなげていく試みにもなったのです。

労働組合や美術サークル、新聞社、地方自治体、学生会など、さまざまな組織が巡回展に関わりました。ときにはデパートの主催で行われることもありました。

「原爆の図展」は、原爆の被害状況を伝え、核兵器への反対運動を広める役割を担うと同時に、その大規模な動員力から、商業価値という点でも注目されていたのです。1952夏.JPG

実は、立川市でも「原爆の図展」が開かれています。

巡回展を担っていた若者のメモによると、1952年8月に3日間ほど開催され、来場者は約1,600人だったそうです。

実際に展覧会をご覧になったという方もいらっしゃいます。その方の記憶によれば、会場は当時立川駅の近くにあった「南口公会堂」とのこと。

朝鮮戦争下に、米軍基地のすぐ近くで行われた「原爆の図立川展」。

当時の複雑な政治状況が凝縮された、とても興味深い展覧会であったことでしょう。

1952okazaki.JPGところが、その展覧会の詳細は、現在ほとんど知られていません。

占領軍に睨まれていた影響もあったのでしょう、立川展に限らず、当時の展覧会はほとんど正式な記録が残されていないのです。新聞などのメディアにも掲載されることはまれでした。

丸木美術館では、当時の「原爆の図展」の記録を掘り起こす作業を進めていますが、そのとき大きな手がかりになるのは、地元の方々の“記憶”です。

ほんのささいな“記憶”や一枚の写真が次々とつながって、具体的な日時や会場、主催団体などの“記録”が掘り起こされることもあります。

もし展覧会のことをご記憶の方がいらっしゃいましたら、ぜひ丸木美術館までお知らせください。どんな些細な情報でも結構です。

 

岡村 幸宣
原爆の図丸木美術館学芸員
〒355-0076 埼玉県東松山市下唐子1401
電話 0493-22-3266  ファックス 0493-24-8371
メール Okamura16@aol.com
丸木美術館学芸員日誌 http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/
Okamura Yukinori
curator
MARUKI GALLERY FOR THE HIROSHIMA PANELS
1401 simogarako Higashimatsuyama-city Saitama 355-0076 , Japan
Tel: ++81-493-22-3266  Fax: ++81-493-24-8371
e-mail: Okamura16@aol.com


 

 


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