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第五福竜丸は平和をめざす№3 [アーカイブ]

第五福竜丸は南太平洋へ          

                                           『知の木々舎』編集部・構成

まえがき

以下の記事は、『写真でたどる第五福竜丸』(財団法人第五福竜丸平和協会・2004)、同協会発行の『福竜丸ニュース』掲載の記事を基礎に同協会の了承をえて編集部で構成しました。 

 マグロ船第七事代丸は、19535月、焼津の西川角市氏に買い取られて、船名も第五福竜丸となりました。そして焼津港を母港に、同年6月から4回、太平洋赤道海域にマグロを求めて航海しました。第五福竜丸は、1954122日、5回目の航海に出ました。  

 船長・筒井久吉 22(当時・以下同様)  漁労長・見崎吉男 28  機関長・山本忠司 27 無線長・久保山愛吉 39 以下、冷凍長、冷凍士、操舵手、操機手、甲板員など乗組員総員23人、平均年齢25歳の若者たちでした。(2008年末現在で、生存者は9人、多くが原爆症をはじめ肝臓ガン、肝硬変、肝障害などで亡くなっている) 

 この航海では最初、ミッドウェー海域でめばちマグロを狙いました。しかし二度目の延縄で縄が切れて流され半分を失い、予定になかったマーシャル方面の南の海へと向かいました。労長・漁労長・見崎吉男さんは、以下のような「船内生活心得」<抜粋>を作成して、規律ある航海生活を打ち出していました。 

 新しき出発と新しき束縛1954年を迎えた そして私は私なりの所感を発表する喜びを感ずる‥‥‥我々も又小さな古船ではあるけれど 何千浬を航海し新しい大きな歴史を作るため命を掛け目標に向かって努力しなければならない……‥我々は世上最大の勝負士である。 常に真剣勝負である……我々の生活は御輿をがつぐに等しい 一人でも抜けたら又肩をゆるめたら全員に負担をかける事を忘れてはならない……常に思ひ出せ出帆の際我々にどんな期待を掛け安全と幸を祈って送って呉れた愛する人々のある事を……信頼と団結によって力強い誇り得る伝統を生み、愛する人々の期待にそむかない最良の航海を続けなければならない       

 1.本船の基礎となる大事な項目を左に記す               一 時間を厳守する事               一.出帆及作業前の飲酒を厳禁す               -.船中の賭博行為を厳禁す               一.船中航海当直に関する件                      当直操舵手はラットの後方羅針盤方位の線上において行動を要望す      

 2.一つ一つの事項に関しては今更説明を必要としない各人立派な良心の所有者である    (中略)    昭和29128日 見崎吉男記  

 27日 ミッドウエー海域でメバチをねらって初の操業9日 漁具のはえ縄の半数以上を失い、3日間するがほとんど回収できず、南下してマーシャル諸島に近づいていました。アメリカの水爆ブラボー実験 アメリカは19457月、ニューメキシコ州のアラマゴードで成果最初の原爆実験に成功。同年869日、広島・長崎に原爆を投下、21万人を越える人びとが犠牲になりました。これにより、アメリカは世界唯一の核保有国としての優位を保持していましたが、19498月、ソ連が原爆実験に成功しました。これが契機となり、世界の二大強国は、とめどない核兵器開発競争に突入したのです。 

 アメリカは、195211月、南太平洋エニウエトク環礁で初の水爆実験、ソ連も19538月、水爆実験に成功しました。 アメリカは、高性能の水爆開発のため、集中して6回の原水爆の爆発実験を行うキャッスル作戦を54年3月から5月に行いました。その最初が3月1日のマーシャル諸島ビキニ環礁での水爆ブラボーの実験でした。この実験に先立ち、アメリカ政府は、危険水域を指定し、一般船舶の立ち入りを禁止していましたが、日本の遠洋漁船には知らされていませんでした。 降りそそぐ死の灰 実験は事前には告知されません。1954(昭和29)年31日午前645分(現地時間。日本時間午前345分)、操業中の第五福竜丸の乗組員は、西の空水平線のかなたが、突然明るく輝くのを目撃しました。つづいて7,8分後に大きな海鳴りをともなう爆発音がとどろいたのです。あわてて延縄を揚げる作業を始めて2時間ほどたつと空全体をおおった雲から、白い灰のようなものが落ちてきて、しだいに雪のように降りそそぎ、甲板に足跡がつくほどに積もりました。白い灰は乗組員23人の顔、手、足、髪の毛に付着し、腹巻きにまでもたまりました。鼻や口から体内にも吸い込みました。やがて「死の灰」と呼ばれるこの白い灰は、核爆発によって吹き上げられた大量の放射能を含んだサンゴ礁の細かいチリで、付着したところは、放射線により火傷の状態になったのです。頭痛、吐き気、目の痛みを感じ、歯ぐきからは血がにじみ、髪の毛を引っ張ると抜けるなどの症状を示しました。  

 第五福竜丸の当直日誌は、次のように記録しています。

当直日誌31日の記載03h7m(日本時間の午前37)14回目投縄(はえ縄の投げ込み)終了 同30m(30)機関停止漂泊ス 04h30m(午前430)揚縄(はえ縄の巻き上げ)開始 揚縄初ノ位置16650E(東経16650)1153N(北緯1153)、ビキン二環礁の中心迄87(161) ビキン二島迄75(145)03h30m(午前330) ビキン二島に於いて原爆実験行はる夜明前なるも非常に明るくなり煙柱あがり2時間後にはE80(東方127)の地点の本船には爆発灰多数の落下を見る5時間に至る身の危険を感じ只ちに揚縄を開始この海域からの脱出をはかる終了後燃料の調査する 厳重な警戒を以て帰路につく  

 314日日曜日、第五福竜丸は母港・焼津に帰りました。乗組員はその午後、焼津協立病院で診察を受けました。大井俊亮当直医師は、広島・長崎の被爆者と同じ「原爆症」ではないかと疑いました。大井医師は症状の重い2名の乗組員を翌朝東京へ向かわせ、東京大学附属病院(文京区)で診察してもらいました。 316日火曜日、読売新聞朝刊は、 「邦人漁夫、ビキニ原爆実験に遭遇-23名が原子病-1名は東大で重症と診断」との衝撃的な見出しで、世界的なスクープを報じました。報道機関もつぎつぎに報じました。 

 この事態に厚生省から調査団(東大医学部、理学部から9名)が焼津に派遣されました。調査団は乗組員の症状を「急性放射能症」と呼び、広島・長崎の「原爆症」と区別しましたが、いずれも放射線障害であることに変わりはありませんでした。第五福竜丸の船体や漁具などからも高い放射能が検出されました。  第五福竜丸の乗組員は焼津の協立病院と北病院で2週間過ごした後、東京に移送されました。さきに入院した2名を加え7名が東京大学附属病院に、16名が国立東京第一病院(新宿区、現国際医療センター)に入院しました。 

 乗組員は、放射線によって冒された骨髄組織に対する治療を受けましたが、容態は楽観を許すものではありませんでした。乗組員の受けた放射線量は、少なく見積っても200レントゲンであろうと指摘する専門家もおり、致死線量600レントゲン、半致死線量400レントゲンとされているところからみても、乗組員の受けた放射線量がいかに危険な線量であったかが推測できます。

 

 イベント等の問合せ

 東京都立第五福竜丸展示館  URL http://d5f.org    東京都江東区夢の島3-2 夢の島公園内  TEL03-3521-8494 FAX03-3521-2900
   E-Mailfukuryumaru@msa.biglobe.ne.jp

                 


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