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書(ふみ)読む月日№3 [アーカイブ]

願はくは ③

                          国文学者 池田紀子

 

  二人で歩く道すがら、今は昔となった子育ての頃を懐かしく思い出し、立派に成人した子どもたちの今日を、嬉しく話題にいたします。

 私たちには、二人の子どもがいます。昭和42年(1967115目、二卵性双生児を授かったのです。二人は文(あや)と学(まなぶ)と言います。両親が共に学ぶ文学を一文字ずつに分かったのです。生まれたとき、双子としては大きくて、体重3000グラム、身長50センチ。用意された保育器も使わずにすみました。

 私は出産を機に、それまで勤めていた府中の明星学苑を退職、育児に専念しました。

 二人の子どもが健やかに育って欲しい。この子たちをしっかりと育てなければならない。

 私は大学ノートを育児日記としました。毎日、体温、体重、食事、排尿、排便の回数、状態、予防接種、発育状況の観察、衣服などについて、克明に記録しました。もちろん、食欲がなかったり、風邪を引いたり、下痢をしたり、高熱を出したり、泣きやまなかったり、私が泣きたくなったりしたことが、そこには書き込まれています。ノートの数が3冊、4冊と増えていくのにつれ、子どもたちは成長していきました。

 暇を見つけ、このノートをもとに、子どもたちの発育の過程と、母としての情念の過程を、『ふたりはひとり』とでも銘打って、まとめてみたいと考えています。

 幼稚園の先生は、

 「お母さんは、膝をついて子どもの目線で話をすることが大切ですよ」

 と話されていました。

 しかし、私の子育ての方針は、私の目線に子どもを抱き上げて、私が子どもの目線に下りることをしないということでした。

 子どもには、少し理解しつらい時もあったと思いますが、この方針を曲げないで育ててきました。

 とはいえ、子どもたちを乳母車に乗せて散歩していたとき、団地の建築場で、学がお茶の花を見て、

 「おうち畑」

 と指さし、つづいて文が、

 「ポップコーンだ」

 などと口走ると、この子達は言葉の天才ではなかろうかと、大喜びで帰宅したりする親馬鹿でもありました。

 この二人も、健やかに成長し、それぞれ素敵な伴侶に恵まれました。

 文は、背が高くてやせていない人が理想の夫と言い続け、ついにその望みどおり、彼女とは30センチも背丈が違う知的で蓮しい男性と結ばれました。

 学は同じ大学のゼミ仲間だった聡明で優しい女性を妻に迎えました。

 私ども夫婦は今、何かと口実をもうけては、時間のやりくりをして、若い2組の夫婦や彼や彼女の両親とも歓談をしたり会食をして楽しんでいます。そして、その席上回顧談にふけっています。

 しかし、昨今の話題の人物は、学の長男・淳之介です。

 2004105、歳になった孫の淳之介は、湯河原の家が大好きです。幼い時から来ていたこともありますが、お風呂から海を見るのが好きと言います。鉄道好きなので、ベランダから新幹線や東海道線の列車の往来を見られるのが嬉しいのです。また、この家でしかできないからと、リビングルームの中一面に、プラレールの線路を組み立て、夢中になって走らせています。

 20052月のある日、淳之介は両親抜きで、私たち祖父母に伴われて一泊しました。

 お気に入りのレストランに入り、好物のエビフライを頬ぼりながら、

 「ここのご飯は美味しい。きっと魔法をかけているんだよね」

 と言って、店の主人を喜ばせました。幼い子のちょっとした心からの言葉は、時として大人を感動させるのです。

 私たちは、生まれ育った地というわけではないけれど、そんな風にすっかりこの地を好きになりました。私どもの終焉(しゅうえん)の地だとも思い、ある日、最期はここに眠ろうと決心し、谷崎潤一郎の屋敷跡近くの墓地に墓石をたてました。さくら石というのだそうですが、うっすらピンク色のその石の表には桜の枝のスケッチと「この地を愛し、この地に眠る」と刻んであります。墓石の横には、朱色で、私ども夫婦の名前が記されています。

 はるか伊豆半島や沖の島々、目の前に海を見下ろす高台にあるこの地は、心穏やかに、癒しさえ感じられる場所なのです。

 「なんだか準備万端ね。でも安心、お墓参りも、帰りに温泉に入れるし、ちょっと遠いけど、海を見ながら来られるし…」

 などと子どもたちは言います。

 「願はくは、谷崎ゆかりの桜が満開の頃…」

 これは、私ども夫婦の会話です。

『書読む月日』ヤマス文房

 
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