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戦後立川・中野喜介の軌跡№4 [アーカイブ]

 基地と横流し(1)     

                                  立川市教育振興会理事長 中野隆右 

 陸軍の飛行基地であった立川にアメリカ軍が入ってきたのは、敗戦から半月ほどが経った昭和209月初めのことである。昭和44年に立川市が刊行した『立川市史』では、その人市の様子を次のように記している。

 昭和20815日、聖断が下りてわが国はポツダム宣言を受諾し、帝国陸海空軍部隊は連合国軍に無条件降服をした。時を移さず連合国軍はハーシー提督のアメリカ海軍第三艦隊が相模湾へ、828日に陸軍部隊を厚木飛行場へ進駐させ、同月30日には連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥が厚木に着いた。越えて93日から4日にかけて、米軍進駐部隊はジープやトラック等に分乗して立川市内に進駐して来たのである。

 米軍は八王子方面より日野橋を渡って、立川市内に入り、柴崎町の旧市役所前を通過し、立川基地に入った。一部は日野橋から立川温泉前を通り、東京府立第二中学校(現都立立川高等学校)に入り、そこに宿泊をした。この武装した長い輸送部隊を立川の市民はただ黙って見送っていた。部隊の進軍中その列の前を横切った者は射殺されるかも知れないからである。又当時市中の婦女子は、身の安全を守るために田舎へ逃げる方がよいというような流言があり、実際立川から近郊へ避難した者も多数あった。当時の三浦立川市長は、市民に対して、外出は極力さけるようにと警告を発していた。

 アメリカ軍司令部兼宿舎としては、一先ず府立二中の校舎が使われ、将校宿舎としては楽水荘や、料亭業平があてられ、一般軍人は曙町の都立立川短期大学校舎(旧陸軍特攻隊宿舎)を兵舎として使用した。

(『立川市史』 下巻 第九章 大正・昭和時代の立川 第四節 敗戦と連合国軍の進駐

※一部誤植は修正した)

 

 軍の飛行場、そしてその関連産業である航空機産業をはじめとする軍需産業によって6万の人口を擁した「軍都立川」の繁栄は、この米軍進駐によって終わりを告げる。これまでいくたびか触れてきたA氏も、「産業戦士」として働いた軍需工場を去り、新しい戦後の生活に踏み出していた。

 「私は日立にいて、終戦になってから、結局幾らかその当時、岡部さんたちのグループに参加していた。年が若いから、今で言えばチンピラだよね。十七歳だもの。それで、いろいろの使役だとか小間使いなどをしていて、たまたま基地へ働きに行った。当時基地から日本人の従業員を最初は駅前にトラックで迎えに来たんですよ、彼らが、通訳を交えて。それで日本人がみんな雑嚢へ弁当を入れて、それで駅へ集まるの。いわゆる日雇いですけれどもね。そうすると、このトラックへ何人使役、20人なら20人。だから、早いもの順なんです。それで、どこへもっていかれるんだか分からないけれども、駅からトラックへ積まれて、中の残務整理をしたんです」

 そこで、前に触れた資材の山を目の当たりにすることになる。倉庫に文字通り山と積まれた軍刀、飛行服、半長靴…物資のない時代のこと、それは目のくらむような光景だったに違いない。

 「当時、私たちは被服なんかなかったでしょう。私とほかの2人と3人で、〝何とかこいつを外へ持ち出す方法はないか〟 と考えた。それで、昔は駅に踏切番の駅員がいたでしょう。西立川の踏切番のすぐ手前が基地の塀でした。その塀のコンクリートの上にあったバラ線を切って、そこを通してその駅員さんに渡したんです。

駅員さんには、―ここで、中から外へ出すから、駅員の宿直室へ一時保管しておいてくれ。あとで取りに来るから―と、あらかじめ話を通しておきました。それで、本刀や服をかなり大量に掘り出して、成功したわけです」

 不思議に犯罪という意識はなかったという。

 「当時、アメリカのものをかっぱらうというのは、ひとつも悪くないというか、みんな誰も何とも思わなかった。ごく当然みたいに。だって、それまでは鬼畜米英だの何とかって、そういう感情があったんですから」

 単に都合よく言い繕っているのではなく、それが当時の一般的な感情でもあったことは、駅員の協力という行為自体が、裏付けていると言えよう。無論、ほめられた話ではないのだが。

 駅員から物資を受け取った3人は、市内のガラス屋の2階の3畳間を借りて用意した盗品隠匿所〟に、友人から借りたリヤカーで運び込むことに成功した。持ちだした物資は閣屋に売りさばいた。

 「あの当時は闘屋さんがいっぱいいました。そして問屋さんは何でも欲しがっていましたよ。たとえば時計なんか持って行けばいくらでも売れました。こんな風にして関屋さん相手に、〝こういうものがある″ と話を持って行ったことが何回あったか知れない」

 豊富な物資に囲まれて働いていた基地の従業員の中には、隙あらばと様子をうかがっている者も珍しくなかったという。

 「一時、日本人で基地に働いているやつは泥棒で、女はバンスケだなんて言われたくらい。泥棒をしたからって周りの日本人には、〝おめえ、まずいよ〟ってとがめる人はだれもいないんだものね。おこぼれにあずかれば嬉しいぐらいなものです。

むしろ いいものがあるんだねえ〟なんて言っている。あんた、今度こういうのをやってきてよ。もし取れたら持ってきてよ〟なんて。だから、MPにすれば、気がついていても、もうしようがねぇなと。日本人の側も、負けたんだから、体裁よくしてあれして、とにかく世の中うまく渡るよりしょうがないや〟なんていう気持ちが、当時は本当にあった」『立川 昭和20年から30年代』ガイア出版


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