SSブログ

砂川闘争50年・それぞれの思い№4 [アーカイブ]

砂川を記録する会代表 星紀市編

「金は一時、土地は末代」(2)     

砂川町基地角拡張反対同盟・町議会議員・全電通労働組合 石野昇さん(故人)

  1955年年914日、町会議員も逮捕されるという激しい激突がありました。逮捕されたのは内野議員と田中議員、あと地元の人も逮捕されました。その衝撃は大変大きかったと思います。経験したことのないことだったので、「これはえらいことだ」 という雰囲気でした。その前から、反対同盟を結成したが、このまま続けていったらどうなるか、それよりも条件闘争に切り替えていった方が、この町のためになるのではないかという動きはありまして、その動きがこれを契機に全面的に出てきました。町内で同盟派と非同盟派の冷たい対立があり、これをめぐって臨時町議会も開かれました。このまま続けていっても得策ではない、条件を決めて、条件をめぐってというのが良いのではないかという主張が出てきたんです。

 条件を決めて闘争をするということになると、政府に頭を下げるということになるし、政府のやる施策の方向で我々が関与せざるを得ないということになります。基地拡張を許すということになると、農民の生活を奪われるということもあるし、そういう意味では 「あくまでも反対を貫くべきではないか」と、条件か反対かで議論は真っ向から対立しました。最終的にはいろいろ議論して、午前3時項までかかりました。とにかく喧喧囂囂で、最終的には 「これ以上議論してもつきない」と採決することになりました。結果的には採決になってしまいましたが、反対闘争に賛成したのが9名、条件闘争に切り替えるが8名、議長は反対闘争委員長でしたが、保留とした議員が2名。保留とした議員は、従来の砂川町の選挙の構図である地主対小作の地主側に近い立場でしたが、それぞれの葛藤の中で良心が勝ったのではないかと思います。「態度が鮮明にできない」というところで保留にしたのではないかと。もしこのとき反対決議ができなかったら、闘争の構図は変わっていたでしょう。

 警察の介入があったとき、砂川三三(さんぞう)町長であったら、町長自ら条件闘争へ切り替えていたと思います。その意味で4月に7票差で、大方の予測を覆して宮伝町長が選出されていたということの意味は大きい。また労働組合とのパイプを持つ町議が選出されていたことも大きいと思います。砂川の選挙は従来、地主対小作の構造でしたが、終戦後、砂川勤労者組合ができ、そこに結集した人々は小作派を支持してきたんです。

19561013日に歴史的な流血の闘いがあって、政府から上地測量作業中正の情報が入り、翌日、阿豆佐味天神社での勝利集会がありました。当時私は東京都知事に抗議に行った帰り道で、五日市街道は勝利にわき上がる人たちでいっぱいでした。「闘争の一区切り」

として、反対派の気勢はあがり、感慨無量であったが、政府は態勢を立て直してくるだろうと思い、全国へ協力を要請しました。

 闘争はその後いろいろな経緯がありましたが、土地取り上げ反対闘争からなぜ原水爆基地反対闘争へと発展したかというと、当然のこととして労働組合と共闘する中、毎年メーデーにも参加するようになり、砂川の菅さんの意識としても、ただ土地取り上げ反対と云うだけでなく、日本の平和を守るということ、原水爆の基地にしてはならないと云うことが必然的に位置づけられていったからです。特ににその原水爆基地反対の運動に頑張った方で、砂川ちよさんという砂川町教育長がいらっしゃって、原水爆反対運動(※注1) にも参加するというようになりました。どこかから意識付けを行ったというわけではなくて、いろいろな集会に反対同盟のメンバーが出て行き、その出会いの中で、「自ら意識付けしてきた」というのが素直な受け止め万ではないかと思います。

 今振り返って砂川闘争の勝利の要因を挙げてみると、基地闘争で重要なことは条件闘争にする派が出ないことだと思いますが、往々にしてどの基地闘争でも闘争の過程の中で条件で解決しようとする派が出てくる。条件派を作るために、国としても相当の多額な費用を投入していると思いますね。土地を協力した者に対しては謝礼を上積みしたり、いずれの基地闘争もそうです。しかし、いつも、「金は一時、土地は末代」ということです。基地闘争では条件派が出てくると隊列が乱れる。終始一貰して反対派が反対を貫くことが大切です。原発の問題もそう。条件で解決しようというものが出てくるから作られてしまう。裏では相当な挺入れがあると思います。とにかく条件で間題を収拾するのではなく、平和を守り民主主義を守るという原則を貫いていけば、必ず砂川闘争のように展望が開けてくるはずです。

1998年年819日インタビュー/1926916日生まれ、2002313日没

※注1

195431日、アメリカは南太平洋マーシャル諸島ビキニ環礁で水爆実験を強行しました。付近を航行中だった日本のマグロ漁船「第五福竜丸」が、水爆実験による「死の灰」を浴び、乗組員二±二人全員が被曝しました。その半年後の1954923日、「第五福竜丸」の無線長だった久保山愛吉さんが40歳の若さで亡くなります。その死を契機に原水爆禁止運動が日本全国に広がりました。『砂川闘争50年 それぞれの思い』けやき出版


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0